スのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願ったごとく「善悪の彼方の岸」に出ずることは、けっして善悪の感じを薄くして消すことによって達せられるのではなく、かえってその対立をますます峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによって成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追い、悪を忌む性質はますます強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦《ゆる》し」をとおして救われることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕えるのである。しかしその「赦し」というのは悪に対してむとんちゃくなインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁《みのが》さず認めて後に、そのいまわしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教えた耶蘇《ヤソ》は「一つの目汝を罪に堕《おと》さば抜き出して捨てよ」と誡《いまし》めた同じ人である。「罪の価は死なり」とあるごとく、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂はさながら面をつつむ皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪えぬように
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