ス。そして一つの行為の善悪を感じ分ける魂の力はじつに粗笨《そほん》を極めている。これが近代人の恥ずべき特色である。多くの若き人々はほとんど罪の感じに動かされていない。そして最も不幸なのは、それを当然と思うようになったことである。ある者はそれを知識の開明に帰し、ある者は勇ましき偶像破壊と呼び、モラールの名をなみすることは、ヤンガー・ゼネレーションの一つの旗号のごとくにさえ見ゆる。この旗号は社会と歴史と因襲と、すべて外よりくる価値意識の死骸の上にのみ樹《た》てらるべきであった。天と地との間に懸《か》かるところの、その法則の上におのれの魂がつくられているところの、善悪の意識そのものを否定せんとするのは近代人の自殺である。もとより近代人がかくなったのは複雑な原因がある。その過程には痛ましきさまざまの弁解がある。私はそれを知悉《ちしつ》している。しかしいかなる罪にも弁解の無いのはない。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして起こるのは無いからである。道徳の前にはいっさいの弁解は成り立たない。かの親鸞聖人を見よ。彼においてはすべての罪は皆「業《ごう》」による必然的なものであって自分の責任ではない
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