セけにたいていの人は気に入らない方が多い。心から交わりたいような人はきわめて少ない。ゆえに多くの場合には心にもない表現をしなければならなくなる。加うるに自分をして最も他人から隠遁せしめようと欲せしむる本質的な疑問は自分がかくして人と交わっても対手《あいて》の人に何ものかを与え得るであろうかということである。自分はこの点を深く反省するときにほとんど交わるゆえんが無いような気がする。第一心から愛に動かされないでいかほどのこともできるものではない。愛があっても知恵と徳とのとぼしい自分たちは他人と交われば他人の運命を傷つけないではおかない。与える自信よりも傷つける恐怖の方が強い。ことに自分は若い女と交わるときはこの感じが最も強い。自分は今では若い女を愛することは自分の手に余る仕事であると思っている。女に逢うと何もかも嘘になる。そしてたいがいは対手の運命を傷つけることになる。いかなる者をも避けないで交わるべきかいなかということは、じつは自分の徳の力量によって決定しなければならないことではあるまいか。「煩悩の林に遊んで神通を現ずる」ことのできるのはただ煩悩を超脱せる聖人のみである。桃水や一休ほどの
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