ネは独存しないものとし、その本質のなかにすでに他人を含めるものとしての自己を経験するならば――それは愛の意識である――そしてその体験より表現の動機を感ずるならば共存の芸術が成立し得るはずである。多くの人々の胸奥に響くことのできる芸術はかかる種類の芸術でなければならない。トルストイはかかる芸術のみを真の芸術であるといっている。ドストエフスキーの作品が単純で、そして万人の心に触れるのもその共存の博《ひろ》い感情があるからである。人間には普遍性がある。一つ造り主によって作られたる共通の血の音がある。私たちは苦痛や悲哀によって不純なエゴイスチッシュなものから浄められて、ある公けな生命を感ずるときには、この音を聞くことができる。そこまで掘りあてないのは感情が浅いからである。しかしながら隣人の愛を感じてくるときに私らの生活はにわかに複雑になってくる。さまざまな二元が生じてきて生活は著しく窮屈になる。一本調子の自由や、他人を顧みぬゆえの放逸は失われる。しかし真の自由はひとたびこの窮屈と二元とを経験して、後にくるものでなくてはならない。いわゆる無礙《むげ》の生活とは障害にひとたびは身動きもできないほど
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