ネる愛はむしろ後のものにおいてやさしく現われるのである。近代人はいかにして「主人」にならんかということばかり考えている。しかし愛はむしろ「僕《しもべ》」の徳においてその真実のはたらきを現わすのである。あのマリアがキリストの足に膏《あぶら》を塗り、髪の毛で拭き、それを接吻したときにキリストが深く感動したのはもっともに思われる。私たちは僕としての愛が先きにできねばならない。小説を書いてるときに施しを求めに来た乞食をうるさがって叱り飛ばすならば、その人の小説は人類的愛の名で書かれる価はない。多数の人を愛するために一人の人間をでも粗末に取り扱うてよい理由はけっしてない。近代人はじつにエゴイスチッシュで個々の人に対してはほとんど興味を感じていない。美しい女か尊敬している人かのきわめて少数にだけしか興味を感じない。そしてうるさがる。自分の必要なときだけ他人を求める。そして人類を愛すると叫ぶのである。たとえばここに一人の文士がいる。その人は何か書くために家族の面倒を避けて温泉に行く。温泉では多人数の百姓客などをうるさがって、静かな居心地のよき部屋を求める。そしてなるべく男の客とは交渉を避ける。そして
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