与える。「ある世界観が厭世観であることは、その世界観の矛盾を示すものである」という言葉に一種の根拠がありはせぬか。いうまでもなく私は世の常の楽天観に与《くみ》するものではない。私は厭世を越えたるいなむしろ厭世そのものの中に見いだされたる楽天観をいうのである。悲しみと苦しみとをもって、織りなされたる悦《よろこ》びをいうのである。そもそも世界観において、楽天だとか厭世だとかいうことは重きをおかるべきでない。それは世界の相《すがた》をできるだけ精細に、如実に anschauen すればよい。その観察が「真」に徹すれば徹するほど私は楽天的な境地が開拓されると思う。私はフローベルやツルゲネフの思想においても、楽天的傾向を見いだすものである。ショウペンハウエルの哲学すら単に厭世観とは思われない。彼の解脱の方法としての愛と認識とはいっそう重要に注意さるべきものである。世界の苦痛と悲哀と寂寞とを徹底的に認識するは楽天に転向する第一歩である。そこに生命の自己認識がもたらす解脱の道がありはせぬか。認識の純なるものは躬《み》をもって知るの体験でなければならない。さらに徹しては愛とならねばならない。愛は最深
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