し私は愛生者をこそ哲学者と呼びたい。
 それから君はややもすれば単純なる心の持主、いわゆる善人をば軽蔑せんとする傾向があるがそれは悪いよ。考えてもみたまえ。もともとわれらは真正の善人――哲学的善人たらんがために哲学に志したのではないか。われらが冷たい思索の世界に、こうして凡俗の知らぬ苦労を嘗《な》めているのは「真」のためでなく、「美」のためでなく、じつに「善」のためである。「実在」に対する懐疑よりもはるかに疾《はや》く、はるかに切実に「善」に対する懐疑に陥ったのであった。迷い惑うるわれわれの前にいかに荘麗に、崇高に、厳然として哲学の門は聳《そび》えたりしよ。われらは血眼《ちまなこ》になって傍目も振らず、まっしぐらに突入したのだ。
 だからわが友よ、われらは彼ら善人を愛し、彼らの持てる純なる情と勇ましき力とをもって守るに価する真の善の宝玉を発見せねばならぬ。われら神聖なる哲学の徒は彼らの抱ける善の玉のいかに不純不透明にして雑駁《ざっぱく》なる混淆物《こんこうぶつ》を含みおるかを示して、雨に濡れたる艶消玉《つやけしだま》の月に輝く美しさを探ることを教えねばならない。濁水|滔々《とうとう》た
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