い人といえども、必ず知っておかなければならない程度の、認識論の最も本質的に重要なる部分をことごとく含んでいるからである。そして自分が常に抱いている、中学の課程において、自然科学を教うる際に、認識論ことに唯心論的な認識論の入門をあわせて教えなければならないという意見の実施の代用として役立つことを信じるからである。実際自分は中学の誤まれる教授法によって授けられたる自然科学の知識の、実在の説明としての不当の――その正しき限界と範囲以上の――要求から解放せらるるまでに、どんなに不必要な、しかもじつに惨憺《さんたん》たる苦悩を経験したことだろう。自分はそのために青春の精力の半ば以上を費《ついや》したといってもいい。この事たる、ただ中学において、自然科学の教師が、その知識が実在の説明として、ある一つの考え方であって、唯一のものではなく、他に多くのそしてその中にはたとえば唯心論のごとく、全然反対の考え方もあることを付加するだけの用意を持っていさえしたならば、免るる、少なくとも半減することができたのである。そしておそらく私のみでなく、ほとんどすべての青年が同じ苦悩を経験するであろうと思わないではいられ
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