闍Nこる本然の要求に押されつつ生きるのである。生を味わう心ではない。ただ生きんがために生きる努力である。ショウペンハウエルは半世紀の昔、Alles Leben Leiden. といった。「生きるは悩み」と知りながら、なお、苦痛の中に価値を見いだしつつ生きる心こそ自然主義の根本的覚悟である。飢えたる者には食欲あることは苦痛であり、失恋の人には愛あることは悩みであろう。しかもなお食わんとし、恋いんとするのである。やむにやまれぬ生命の本然の要求は絶対の価値あるザインである。自然主義はこのザインに生存の意義を見いだすのである。
 自然ということは西田氏の思想全体を一貫せる根本精神であるが、その倫理思想にはこの傾向がことに力強く現われている。すべてのものをしてあるがままにあらしめよ、世に最も尊くして美しく不可思議なるものはザインである。氏が自然に対する純なる嘆美と敬虔の情は氏の倫理学をして著しく芸術と宗教とに接近せしめている。
 氏は善が諸種の要求の調和であることを説いてはプラトーの善を音楽のハルモニーにたとえしことを述べ、善の要求の厳粛なることを論じては、カントが蒼空の星群の統一と並べて、内心に存在する道徳的法則を称嘆せし例を引き、万人の意識の普汎性を説いては野より帰れる淋しき書斎のファウストを思い、善の極致としての主客の融合を論じては創作衝動に駆られて自己を忘れたる芸術家の神来と同一視し、『宗教的意識』には「すべて万物が自己の内面的本性を発露したときが美である」というロダンの語を引いて美と善との一致を説いている。
 そればかりではない。氏の自然に対する敬虔の情は氏をして善悪の対立をそのままに放置せしめなかった。何ゆえに自然に罪悪なるものが存在するのであるか。これ心清きものの胸を悩ます種であろう。氏はかばかり統一せる調和せる自然に本質的なる罪悪の存在を許すに堪えなかった。かくて包括的なる宗教的の立場より、罪悪を自然の外に排除せんと試みて、

[#ここから1字下げ]
 深く考へて見れば世の中に絶対的の悪といふものはない。悪はいつも抽象的に物の一面を見て全貌を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現はれるのである。悪がなければ善もない。悪は実在の成立に必要なる要素である。(善の研究――三の十二)
[#ここで字下げ終わり]

 と述べさらにアウグスチヌスの語を引いて、陰影が画の美を増すがごとく、もし達観すれば世界は罪を持ちながら美であるといっている。われらはライプニッツ以来議論の多いこの説明が、この世界より悪の存在を除き去るに完全なるものとは思わない。そこには種々の疑問が挾み得るであろうが、氏のごとく自然の円満と調和とに純なる憧憬を有する人にとっては、その企図の方針はむしろ当然のことであると思う。氏にとりてはもともと精神と自然と二の実在があるのではない。両者はただちに唯一実在である。その実在の統一力が神である。自己の本然的要求は神の意志と一致するのである。宇宙は唯一実在の唯一活動であり、その全体は悪を持ちながらに善である。

       四

 宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である。欠けたるものの全きを求むる思慕である。みずから貧しくして、偽りに満ち、揺らめきて危うきを知る謙遜なる心が、豊かにして、まことに、金輪際《こんりんざい》動揺せざる絶対の実在を求むる無限の憧憬である。一人|※[#「螢」の「虫」に代えて「几」、75−13]然《けいぜん》として生きるに耐えざる淋しき魂が、とこしえに変わらざる愛人と共に住まんと欲する切なる願いである。氏はその宗教論の冒頭に宗教的要求という一章を掲げて、宗教がいかに真摯《しんし》に生きんとする者のやみがたき要求であるかを述べて次のごとく言っている。

[#ここから1字下げ]
 宗教的要求は自己の生命に就《つい》ての要求である。我々の自己が相対的にして有限なるを知ると共に、絶対無限なる力に合一し之《これ》に由《よ》りて永遠の真生命を得んと欲するの欲求である。パウロがも早《はや》我生けるにあらず、基督《キリスト》我に在《あ》りて生けるなりと言つたやうに、肉的生命の全部を十字架の上に釘《くぎづ》け終りて独《ひと》り神によりて生きんとするの情である。真正の宗教は意識中心の推移によりて、自己の変換、生命の革新を求めるの情である。世には往々|何故《なにゆゑ》に宗教は必要であるかなどと問ふ人がある。併《しか》しかくの如きは何故に生きる必要があるかと問ふと同様であつて、自己の生涯の不真面目なることを示すものである。真摯に生きんとする人は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである。(善の研究――四の一)
[#ここで字下げ終わり]

 宗教は氏の哲学の終局であり、根淵である
前へ 次へ
全99ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング