髓n位の厳粛なることを痛感せずにはいられない。知識の拡張は同時に自由の拡張である。無機物より有機物に進んで、人間に至るに従い、意志はしだいに明瞭に、認識は階段をなして発達しきたっている。すなわち生命はしだいにおのれ自身を認識してきている。それと共に自由はしだいに拡張せらるるのであろう。しかしながら氏のいうごとく自然現象と意識現象との間に前者は必然にして後者は自由であるというような絶対的の区別があるとは思えない。今日の生物学が言うように無機物にもなおきわめて低き程度の意識を許さねばならないならば、同時にきわめて低き程度の自由をも認めなければなるまい。自由は要するに程度の問題である。無機物より人間に至るまで実在の自己認識の努力の発達に従いてしだいに高き程度の自由に進むと考える方が、いっそう氏の思想を徹底せしめないであろうか。われらはこの自由の発展的過程の階段に立てるみずからを発見することに大なる喜悦を感ずるのである。
 しかしながらわれらがここに疑問を起こさざるを得ないのは行為の自然ということと、自覚ということとははたして矛盾なく調和せらるるかという問題である。氏の自由とは内面的に自己の本性に必然なること、換言すれば自然ということである。しこうしてその内面的必然なる行為が自由であり得る条件はその行為が自覚されるというにある。しかし事実として自然なる行為が自覚を伴うであろうか。われらの行為が自然に発動するときは、むしろ無意識の状態であって、氏の盲目的なりとなす自然現象に酷似している。われらの行為に自覚が伴うのはその行為の発動が妨げられたるときである。最も自然なる行為はなんらの反省も自覚も伴わざる流動的なる自発活動である。
 この見かけの矛盾を調和するためには自覚の内化、知識の本性化ということを考えなければならない。すなわち知識がいまだ外的であって、十分に自己のものとならず、自己の本性の中に包摂せられざる間は行為の自然の発露を妨げるけれども、その知識が完全に内的に自己のものとして会得されたときには、直接に行為と合致して、その自然の開展を妨げない。たとえば熟練なるピアニストはその指の鍵盤に触るることを意識しない。しかしこの場合には、指もて鍵盤を打ちつつあることを知らぬのではない。その知識が直接に行為に包摂されて、これと合致してるのである。すなわち純粋経験の状態であって、知と行とが一致してるのである。善事を行なうにしても、善行をなしつつあることを意識せる間はその徳がただちにその人の本性となってるのではない。孔子が心の欲するところに従うて矩《のり》を踰《こ》えずといったごとく、自然のままに行ないしことがただちに徳に適ってるときその人は真に徳を会得しているといい得る。徳の知識が本性の内に体得されているがゆえに、自然のままの行がただちに徳と合するのである。真実の知識はただちに行為を誘うて自然にして無意識なる自発自展を開始する。このときは現前唯一の事実あるのみである。知識はその中に包摂されている。よく知らざるがゆえに知るのである。かくして自然と自覚と自由とは純粋経験の状態においてただちに融合して一如《いちにょ》となるのである。
 善は自己が自己に対する要求である。われらは他人のために善をなすのではない。自己の人格的要求に促されてなすのである。罪悪を犯ししときにきたる内心の苦悩は他人の上に被らせし害悪を傷《いた》むのではない。自己の人格の欠陥と矛盾とを嘆くのである。善行をなししときにくる内心の喜悦は、その結果として起こる他人の幸福に対してでもなく、自己の上に返るべき報酬に対してでもなく、全く自己の人格の完成、向上に対する純なるたましいの喜びである。真正なる善は自己の人格を対象とせる観照的意識より生じなければならない。われらの意志の上にかかるおのれみずからの要求でなければならない。西田氏の倫理思想は真新なる意味における個人主義である。
 しからば善の内容をなすものは何か。それはわれらの生命の本然的要求である。価値は要求に対する合目的性である。道徳的判断が一の価値判断である以上、それが要求を予想してることはいうまでもない。しこうしてその要求なるものはそれ自身価値の尺度であって、評価の対象にはならない。いいとか、わるいとかいう差別を超越したものである。それはただわれらに与えらるるものである。自然にわれらに備わる性質である。じつにこの本然の要求こそわれら自身の本体である。Wollen を離れては Sollen は無意義である。善が所有する命令的要素はこの自己本然の要求の上に求めるほかはない。われらに本然に備われる要求は動かすべからざるザインであって同時にゾルレンの根源をなすものである。Du sollst という声がもし外部よりわれらを襲うならばわれらはニイ
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