ニの安息と楽しさと、また誘惑的な甘さをさえ感じるのである。沼の面を染めている夕焼けがあせて早い夜が訪れかけるとき、自分は一人で櫂《かい》を取って漕ぐことがある。自分は櫂を流して、舟を波にゆだねる。そのとき沼の上から見ると岸辺の自分の家は黒ずんで小さく見え、そこにこの森の中でのただ一つの自分の部屋の灯が見えるのがどんなに懐かしく感じられるだろう。そして家の後ろの小高い丘の上のこんもりとした木立の上に大きな星がまたたくのを見るときに自分は本当に吸い込まれるような幸福を感じることがある。そのとき自分の心は全く静けさを保ち、岸辺に生えた蘆《あし》の茂みのそよぎほどの動揺もないのである。悲しみさえもそのときは涙とならないで柔らかに心をうるおすのである。自分はそのとき静かな祈りを感じる。そしてそのときほど自分の心が浄《きよ》らかに平和に、またみち足っているのを感じることはない。自分は自分の心をかくのごとく尊き有様に保ち得る生活法を善きものと思わないではいられない。「汝外に出で人と交わりて帰るときは汝の心必ず荒れて汚れたるを見いださん」というトマス・ア・ケンピスの言葉がしみじみと思われる。
自分はかかる静かな気持ちを乱さないで保ちたいと願う者である。自分はなるべく町へ出ずまた自分の父母の家へさえも帰ることをでき得るだけ避けたい。自分は自分が人懐かしくなって町の燈火の方へ足の向こうとするときにはそれを愚かな誘惑として退ける。そして父母を省みない心苦しさもあえて忍んで家からも離れて暮らしたい。自分は家からも遁《のが》れたい心をしみじみと感じる。その心はだんだん深くかつコンスタントなものになってゆく。トルストイが妻子を離れようとした心のなかや、昔から聖者たちが出家しなければならなかった心の歩みがしみじみと同感せられることがある。自分は隣人としての愛をもって人と人との繋がりの基としている者である。自分の父母はチピカルな世の中の「親」である。そして自分は「一人息子」である。小さいときから両親の恩愛を一身に集めている。他人は皆自分の親を甘すぎるといって非難するほど自分を傾愛してくれる。自分は小さいときからの思い出を辿《たど》ってみれば、いかに両親が自分を愛していてくれるかがよくわかる。自分はわがままな上に、病身でどれほど両親に苦労をかけたかわからない。しかも両親は少しも自分を悪く思わないでもったいないほど愛してくれる。それにもかかわらず自分は家から離れたい切なる願いを感ずる。自分は家の中にいて両親を見ていると胸が圧しつけられるような気がする。そしていつも不安である。すぐにも逃げ出したいような気がすることがしばしばある。早くあちらに行ってくれればいいと思う。そして去ればホッとする。何ゆえに自分はそのように感じるのであろうか。それには二つの理由があるように思う。一つは親の愛に満足できないため、他の一つは親を愛することのできないためである。そしてこの二つは自分に人間の淋しき運命、人間の愛の実力なき無常を感じさせるからである。自分は親の愛で満足することはできない。両親に対しては何の不足もない。むしろもったいなく気の毒に思う。しかしそれだからといってその愛で満足することはできない。自分の心には深い人間としての悲哀がある。自分はその悲哀で生きている。その悲哀が自分の生活、自分その者の本質を占めている。けれど両親はその本質に触れてくれない。それを理解してくれない。自分のその重要な部分、むしろ自分その者とは何の関係もなく生きている。その意味においてあか[#「あか」に傍点]の他人である。キリストが母にむかって「女よ。汝とわれと何の関わりあらんや」といったように本当に何の関係もないような気さえすることがしばしばある。始めからあか[#「あか」に傍点]の他人であるならばむしろいい。けれど対手《あいて》は世の中で最も近い密接なものと考えられ小さいときから一緒に暮らし、そして愛にみちているとみずからも許し、他人も認めている肉身の親である。その親に対してかかる感じを持つことは苦しい。しかも親の方ではそれを感じないで、なんとかすれば「親子の間だもの」などというのではないか。「親なんかそれくらいのものさ」と悟り切ってる人はいい。自分はいまだ悟りきっていない。それを悟ってゆくことは悲哀である。そういう淋しさは自分が深い悲哀に沈んでいるときに、母が来て自分を慰めてくれるときなどにことに深く感じられる。自分は母の言葉を聞きながら、「これが自分をいちばん愛するものの、一生懸命の慰めの言葉か?」と、思わず黙って母の顔を見入ることがある。そのようなとき、自分はじつに淋しい。自分はときどき思う。「自分はさまざまの悲哀を味わってきたが、自分の今の悲しみはもはや欲望《ベギールデ》のみたされざる悲哀では
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