《ぼたんゆき》が音も立てずに降っている。
 昨日丸山さんが手紙をよこした。つつましい筆使いだがちょっと人を惹きつける。私は三年前の夏の一夜を思いだす。水のような月の光が畳の上までさし込んで、庭の八手《やつで》の疎《まば》らな葉影は淡《あわ》く縁端にくずれた。蚯蚓《みみず》の声も幽《かす》かに聞こえていた。螢籠《ほたるかご》を檐《のき》に吊して丸山さんと私とは縁端に並んで坐った。この夜ほど二人がしんみりと語ったことはなかった。淑《しと》やかに団扇《うちわ》を使いながら、どうかすると心持ち髷《まげ》を傾けて寂しくほほ笑む。と螢が一匹隣りの庭から飛んで来た。丸山さんは庭に下りて団扇を揮うて螢を打った。浴衣《ゆかた》の袖がさっと翻る。八手の青葉がちらちら揺らぐ。螢は危く泉水の面に落ちようとしてやがて垣を掠《かす》めてついと飛んで行った。素足に庭下駄を穿《は》いて飛石の上に立った丈《たけ》の高い女の姿が妙にその夜の私の心に沁みた。寡婦にして子供無き丸山さんは三之助さん、三之助さんと言って私を弟のごとく愛してくれたのだが、今では岐阜で女学校の先生を勤めてるそうだ。
 私は休暇の初め、岡山で私の趣味に照らして最も美しいと思う花簪《はなかんざし》を妹に土産《みやげ》に買って帰ってやったら、あの質素な女学校ではこんな派手《はで》なものは插《さ》されませぬと言っていたがそれでも嬉しそうな顔はした。君も重子さんに本でも慰めに送ってやりたまえ。妹というものは可愛いもんだからね。明後日出発する。しっかり勉強したまえ。

 O市の春はようやく深し。今日の日曜を野径《のみち》に逍遙《しょうよう》して春を探り歩きたり。藍色《あいいろ》を漂わす大空にはまだ消えやらぬ薄靄《うすもや》のちぎれちぎれにたなびきて、晴れやかなる朝の光はあらゆるものに流るるなり。操山の腹に聳《そび》ゆる羅漢寺《らかんじ》は半《なか》ば樹立に抱かれて、その白壁は紫に染み、南の山の端には白雲の顔を覗《のぞ》けるを見る。向こうの松林には日光豊かに洩《も》れ込みて、代赭色《たいしゃいろ》の幹の上に斑紋を画き、白き鳥一羽その間に息《いこ》えるも長閑《のどか》なり。藍色の空に白き煙草《たばこ》の煙吹かせつつわれは小川に沿いて歩みたり。土橋を潜る水は温《ぬる》みて夢ばかりなる水蒸気は白く顫《ふる》え、岸を蔽えるクローバーは柔らかに足裏の触覚を擽《くすぐ》りて、いかにわれをして試みんとする春の旅の楽しきを思わしめしよ。わが友よ、御身と逢うの日は近く迫り来れり。わが心は常に哲学を思い、御身を慕えり。じつにわれらの間の友情はかの熱愛せる男女の恋にも勝《まさ》りていかに纏綿として離れがたく、純乎として清きよ。夜半夢破れて枕に通う春雨の音に東都の春の濃《こま》やかなるを忍ぶとき、御身恋しの心は滲《にじ》むがごとくに湧き出ずるなり。今宵月白し。花紅き籬《まがき》のほとり、行人の声いと懐し。

 大船で訣《わか》れるとき、訣れの言葉をも交さず、またお互いに訣れるのだということも知らないで訣れるのなら好いと思った。しかし君と僕とはきまりの悪い、辛そうな顔して訣れた。汽車がゆるゆる動き出す。君が窓に肱杖突いてこちらを見てる。僕がときどき後を振り向く。そのたびごとに君の姿が遠く小さくなる。そのうち君と僕とは全く訣れてしまったのである。手持無沙汰に、あの麦藁帽子を被って、あのマントとあの袋とを携えて、プラットホームの一隅に四十分もつくねんとしていた僕の姿をば、三日前の夕暮れには共に暢々《のびのび》して眺めた風景にこのたびは君一人で面接しながら察してくれたであろう。
 とにかく再び汽車に乗った。君と別れて取り放されたように淋しく疲れた私の胸はまたもややるせない倦怠に襲われねばならなかった。
 明くれば五日黎明、しとしとと降る京の雨の間を走る電車に乗せられて私はS君の宿を訪るる身であった。朝飯をすまして私とS君とは春雨に烟った東山に面する一室に障子を閉め切って火鉢を隔て向き合う。私が鎌倉、逗子、東京の近況、君やH子さんのことなど話して聞かす。しかし楽しく暖かく君と遊んできた私には、その後は淋しくもあり、悲しくもありしてならなかった。S君と私との間にはかなりぼんやりしてる一枚の帷《とばり》が下がってる。S君は気のおける人だ。うち解けてくれない。どうしたらS君と心おきなく楽しく話せるのだろうかと思わざるを得なかった。君の言葉を借りて言えば、S君の感情はルードである。どうかするとS君のこの傾向が鋭く感じられたので京都においてはただ自然美に恵まるるのみであった。夕暮れ、私ら二人は知恩院を訪うた。雨晴れの夕暮れの空に古色蒼然たる山門は聳えていた。ああこれぞ知恩院である。山門であると思いながら、私共はそれを潜った。春雨を豊かに吸うた境内
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