ただ味わおうとのみ努《つと》めている。彼の唯一の根底は生の刺激すなわち歓楽である。歓楽からただちに人生に入った彼の内的生活の過程を私は納得することができない。絹糸のごとき繊細なる感受性は持ちながら、知識は荒繩のごとく粗笨な一部の文芸家によって、哲学者の神聖なる努力と豊富なる功績とがいたずらに人生の傍観者なる悪名の裡《うち》に葬り去られんとするのは憤慨すべき事実である。われら哲学の学徒より見れば、いまだかつて哲学者ほど人生に対して親切、熱烈、誠実なる者を知らぬのである。彼はライフを熱愛するのあまり、これを抽象して常に眼前にぶら下げている。あたかも芸術家が自己の作品に対するごとき態度をもって哲学者は自己のライフに面している。かのロダンの大理石塊を前にしてまさに鑿《のみ》を揮《ふる》わんとして息を屏《と》め目を凝らすがごとくに、ベルグソンは与えられたる「人性」を最高の傑作たらしめんがためにじっとライフを見つめているのである。われらは彼の蒼白き頬と広き額と結べる唇とに纏綿たる執着と、深奥なる知性と、強烈なる意欲の影の漂えるのを看過してはならない。フィロソファーとは愛知者という語義だという。しかし私は愛生者をこそ哲学者と呼びたい。
 それから君はややもすれば単純なる心の持主、いわゆる善人をば軽蔑せんとする傾向があるがそれは悪いよ。考えてもみたまえ。もともとわれらは真正の善人――哲学的善人たらんがために哲学に志したのではないか。われらが冷たい思索の世界に、こうして凡俗の知らぬ苦労を嘗《な》めているのは「真」のためでなく、「美」のためでなく、じつに「善」のためである。「実在」に対する懐疑よりもはるかに疾《はや》く、はるかに切実に「善」に対する懐疑に陥ったのであった。迷い惑うるわれわれの前にいかに荘麗に、崇高に、厳然として哲学の門は聳《そび》えたりしよ。われらは血眼《ちまなこ》になって傍目も振らず、まっしぐらに突入したのだ。
 だからわが友よ、われらは彼ら善人を愛し、彼らの持てる純なる情と勇ましき力とをもって守るに価する真の善の宝玉を発見せねばならぬ。われら神聖なる哲学の徒は彼らの抱ける善の玉のいかに不純不透明にして雑駁《ざっぱく》なる混淆物《こんこうぶつ》を含みおるかを示して、雨に濡れたる艶消玉《つやけしだま》の月に輝く美しさを探ることを教えねばならない。濁水|滔々《とうとう》たる黄河の流れを貪り汲まんとする彼らをして、ローマの街にありという清洌なる噴泉を掬《く》んで渇を潤すことを知らしめねばならない。
 思えば今を距《さ》る二千六百年の昔、「わが」哲学がミレートスの揺籃を出《い》でてから、浮世の嵐は常にこの尊き学問につれなかった。しこうして今日もまたつれないのである。故国を追われて旅の空に眼鏡を磨きつつ思索に耽ったスピノーザの敬虔なる心の尊さ、フィロソフィック・クールネスの床《ゆか》しさ! 僕らはあくまでも尊き哲学者になろうではないか。私はH氏のものものしき惑溺《わくでき》呼《よば》わりに憎悪を抱き、K氏の耽美主義に反感を起こし、M博士の遊びの気分に溜息を洩《も》らす。M博士は私の離れじとばかり握った袂《たもと》を振り切って去っておしまいなすった。私はかの即興詩人時代の情趣|濃《こまや》かなM博士がなつかしい。かのハルトマンの哲学を抱いて帰朝なすった頃の博士が慕わしい。思えば独歩の夭折《ようせつ》は私らにとって大きな損失であった。
 底冷たい秋の日影がぱっと障子に染めたかと思うとじきとまた暗くなる。鋭い、断《き》れ断《ぎ》れな百舌鳥《もず》の声が背戸口で喧《かしま》しい。しみじみと秋の気がする。ああ可憐なる君よ、(可憐という字を許せ)淋しき思索の路を二人肩を並べて勇ましく辿《たど》ろうではないか。行方《ゆくえ》も知れぬ遠い旅路に泣き出しそうになったらゼームス博士を思い出そう。哲学者は淋しい甲蟲である! お互いに真面目に考えようね。

 お手紙拝見。お互いに青春二十一歳になったわけだね。でも苦労したせいか僕の方が兄のような気がしてならない。昨年の正月の艶々しい恋物語を知ってるだけに、冷たい、暗い、汚い寮で侘《わび》しく新年を迎えた君がいっそうのこといとしい。君は私と違って花やかな家庭に育ったんだからね。T君が君をロマンチックだって冷笑したって。かまうものか。彼の刹那主義こそ危いものだ。なぜというに、彼の思想には中心点が無いからだ。彼の「灰色生活」は虚偽である。みたまえ。彼の荒《すさ》んだ生活には、ああした生活に必然伴うべきはずの深刻沈痛の調子は毫も出ていないではないか。さて僕だ。例によって帰省したものの、ご存じのとおりの家庭ゆえあまりおもしろくない。でもさすがに正月だ。門松しめ飾り、松の内の八百屋町をぱったり人通りが杜絶《とだ》えて、牡丹雪
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