潟Xトの同情すべき弱点である。しかもその弱点が多大な犠牲となったときにそれは人格的な涙に価する。けだしイデアリストにとっては実生活があまりに貧弱なるがゆえに、自己の内面に宿る偉大なる感情を盛る材料がない。それゆえに木の片、石の塊をも捕えて、これに理想を盛りあげようとする偶像崇拝が成立する。それは滑稽《こっけい》な悲劇をもって終わるに決まっている。私はこのトラギコメディを抱いて涙を垂れる。私は表現の権威につきては十分注意したつもりであった。表現の価値を批判しつつ、みずからも言い女の言をも聞いた気であった。しかしなんといっても私が魯《おろ》かにして稚《おさな》かったに相違ない。「あなたはそう思います。けれどもあなたはそうしません」といったショウの冷譏《れいき》の前に私の幼稚を赤面するほかはない。思えば「異性の内に自己を見いださんとする心」はそら恐ろしき表現にみちている。「女に死を肯定せしめた」と誇った私は、別るるに臨んでの私の健康の祈りさえも得ることはできなかった。冷淡ないやな手紙が一片私の手に残った。そして癒えざる病がともに残った。
そればかりではない。私の悩みは私が自己に敗れんとする恐怖である。最後の彼女の手紙を見た私の心に燃え立ったものは獣のごとき憎悪と讎敵《しゅうてき》のごとき怨恨とであった。これは明らかに自己を破るものである。かかる自殺的感情に打ち克たれては私は最後の立場を失うものである。私は自己を救うためにこの憎悪を克服せねばならなかった。それには六種震動ともいうべき心の転回的努力を要した。そして今では彼女を憐《あわ》れみ許す穏やかな心になっている。いな、前よりもいっそう深きリファインされたキリスト教的愛で彼女を包み、心より彼女の幸福を祷《いの》っている。
考えてみれば彼女は憐れむべき女である。私を欺いたのも悪意からではなく稚きものの犯しやすき表現の罪に陥ったものであろう。まだ思想の定まらない彼女が私の尨大な、不完全な、私の精神生活の重荷に堪えなかったのも無理はない。いわんや肺病の恋人と肺病の母とを持ち、母の喀血を目睹《もくと》した彼女の胸中を察すればふびんに堪えない。私はひたすらに彼女の今後における人間としての成功のおぼつかないのを憂慮する。いまに至りては彼女の幸福を傷つけずしては私のそれの要求の実現できない永い悲哀が残るばかりである。恋い慕う心のみたされない苦しさに悶えるばかりである。
私は初めから小説などに描かれた恋愛に同感できるのはほとんど無かった。『死の勝利』のジョルジオにも、『煤烟』の要吉にも、『烟』のリトヒノフにも同感できなかった。ジョルジオの恋は性愛の最もエゴイスチックなものである。また私は恋を失うて女を罵《ののし》り、女性全体に一種の反抗的気分を抱くようなことはしたくない。かくのごときことは単に深き失恋の悲哀を味わいたるものにはできることではない。またリトヒノフのごとく自己の恋をも烟のごとくずるずるに消してしまいたくない。私は自己の恋愛を熟視し、自己の真相に徹して、愛をして人格的に推移するところに赴《おもむ》かせたい。人格の連続性を失いたくない。恋を超越した道、冷笑した道は私の今後歩むべき道ではない。恋を失うたものの、恋の内より発する道こそ私の歩むべき公道である。それはいかに荒れた色彩に乏しいものにしても私が血と涙とをもって拓《ひら》きし大切な道である。私をどこか私に適した世界に導いてくれるであろう。それがいかなる世界であるか、いま非常なる複雑と多様との中に陥れる私には予測できない。しかし私は私の恋愛を批判して、恋愛の内より道を開いて出たいと思う。私は何よりも私の認識が散漫にして雑駁なのに危惧の念に打たれる。このたびの経験より考うればどれほど誤謬多き見方をしているかしれないからである。私がもっと確実に、深刻にものをみることができるならばもっと安全な善い生活ができるであろう。私はもっとしっかり[#「しっかり」に傍点]した歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。分析的にという意味ではない、材料の蒐集を豊富にし、その関係の観察を精緻にすることを指すのである。次に私は愛の種類について考えねばならない。私は本能的な愛とキリスト教的な愛とを混雑させていた。私は前者より後者に推移せねばならぬ。これが高価なる経験が私に与えた最も重大なる成果である。本能的愛は愛の純真なるものではない。囚縛されたるエゴイスチックなものである。真の愛は『善の研究』の著者が説くごとき認識的キリスト教的愛である。意識的努力的なる愛である。生物学的なる本能にあらずして、人間の創造的なる産物である。性愛も母の愛も認識する心の働きとは異なれる盲目的なるものである。
私の恋を破った最大の敵は
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