タ在するためには、その性質と区別せらるる他の色が対立しなければならない。色が赤のみであるならば赤という色の表われ方がない。しかのみならずこの二者を統一する第三者がなければならない。なんとなれば全く相独立して互いになんらの関係のない二つの性質は比較し区別することはできないからである。ゆえに真に単純なる独立せる要素の実在ということは矛盾せる観念である。実在するものはみな対立と統一とを含める系統的存在である。その背後には必ず統一的或者が潜んでいる。
しからばこの統一的或者は常にわれらの思惟の対象となることのできないものである。なんとなればそれがすでに思考されているときは他と対位している。しこうして統一はその奥に移って行くからである。かくて統一は無限に進んで止まるところを知らない。しこうして統一的或者は常にわれらの思惟の捕捉を逸している。われらの思惟を可能ならしめるけれども、思惟の対象とはならない。この統一的或者を神という。
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一方より見れば神はニコラス・クザウヌスなどの言つた如くすべての否定である。これと言つて肯定すべきもの、即ち捕捉すべきものがあるならば已《すで》に有限であつて宇宙を統一する無限の作用をなす事は出来ない。この点より見て神は全く無である。然《しか》らば神は単に無であるか。決してさうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一作用が働いてる。実在は是によつて成立するのである。神の宇宙の統一である。実在の根本である。そのよく無なるが故《ゆゑ》に在《あ》らざる処なく、働かざる所がないのである。(善の研究――二の十)
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この氏のいわゆる神の本質に関しては、後に氏の宗教を観察するときに論ずることとしてここには主として認識論の問題より、神の認識について考えてみようと思う。
しからばわれらはいかにして、この統一的或者を認識することが可能であるか。
氏はここにおいてわれらの認識能力に思惟のほかに知的直観(intellektuelle Anschauung)をあげている。氏のいわゆる知的直観は事実を離れたる抽象的一般性の真覚をいうのではない。純一無雑なる意識統一の根底において、最も事実に直接なる、具体的なる認識作用である。知らるるものと知るものと合一せるものの最も内面的なる会得《えとく》をいうのである
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