ト、かえって唯物論を裏切り、深遠な形而上学を建設したのである。経験という語と形而上学という語とは哲学史上背を合わしてきているにもかかわらず、氏の体系においては経験はただちに形而上学の拠って立つ根底である。これは氏の哲学の著しい特色といわなければならない。氏はいたるところ唯物論の誤謬を指摘して、実在の真相の解釈としての科学の価値を排斥しているが、その排斥の方法は科学の拠ってもっておのれを支持する基礎である、いわゆる経験を吟味して「それは経験ではない、概念である」と主張するのである。これほど肉薄的な根本的な、そして堂々とした白日戦を思わせるような攻撃の仕方はあるまい。

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 唯物論者《ゆゐぶつろんしや》や一般の科学者は物体が唯一《ゆゐいつ》の実在であつて、万物は皆物力の法則に従ふと言ふ。しかし実在の真相は果《はた》してかくの如《ごと》きものであらうか。物体といふも我々《われわれ》の意識現象を離れて、別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与へられたる直接経験の事実は唯《ただ》この意識現象あるのみである。空間も時間も物力も皆この事実を統一説明するために設けられたる概念である。物理学者の言ふやうなすべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如きものは、最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。(善の研究――四の三)
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 しかしながら注意すべきことは氏は口を極《きわ》めて唯物論者を非難しているけれども、けっして主観のみの実在性を説く唯心論者ではないことである。氏はむしろヴントらと立脚地を同じくせる絶対論者である。ヴントが黄金期の認識として説く写象客観(Objektvorstellung)のごとく、主観と客観との差別のない、物心を統一せる第三絶対者をもって実在とするのである。この点は氏の哲学が客観世界を主観の活動の所産とするフィヒテの超越的唯心論と異なり、むしろシェリングのいわゆる das Absolute に類似するところであって氏はこれを明言している。

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 元来精神と自然と二種の実在があるのではない。この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。純粋経験の事実においては主客の対立なく、精神と物体との区別なく、心即物、物即心、只《ただ》一個の現実あるのみである。かく孰《いづ》れかの一方に偏せ
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