ああ、今やわれら二人の間を画《かく》して、無辺際の空より切り落とされたる暗澹たる灰色の冷たい幕。われらの魂はこの幕を隔てて対手の微かな溜息を聞き、涙を含む眸と眸とを見合わせながら、しかも相抱くことができぬのである。ああ僕はどうすれば好いのだろう。
私は哀れな、哀れな虫けらである。野良犬のごとくうろうろとして一定の安住所が無い。寂寞《せきばく》と悲哀と悶愁と欲望とをこんがらかして身一つに収めた私はときどき天下真にわれ独りなりと嘆ずることがある。今や私には気味悪い厭世思想が心の底に萌している。この思想は蕭殺たる形を成して意識の上に現われては私を威嚇したり揶揄《やゆ》したりする。
そこでM町を去ってF村へ鞍替えをしたがここもできたことはない。無限に続く倦怠は執念深きこと蛇のごとくここでも私に付き纏う。孤独の寂し味のなかに包まれて、なんのことはない、餅の上に生えた黴《かび》のようなライフを味おうている。
M町から帰った夜、兄と一つコップの酒を飲んでいろいろ語った。蚊帳《かや》のなかに蟠《わだかま》る闇の裡に私らのさざめきは聞こえた。黙契の裡に談話を廃して後しばらくして、「蛙が鳴くなあ」兄の声はしめやかであった。
「独歩がいったごとくに宇宙の事象に驚けるといいなあ」と兄がいった。私は腹のなかで頷《うなず》いてる。そして、
「現象の裡には始終物|自爾《みずから》がくっついてるのだから驚いた次の刹那にはその方へ回って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私がいった。
「それは理知の快味だ。驚いた刹那は争うべからざる驚きの意識で占領された刹那じゃないか。その意識こそ尊い意識だ」
「森鬱《しんうつ》として、巨人のごとき大きな山が現前したとき、吾人は慄然《りつぜん》として恐愕の念に打たれ、その底にはああ大なる力あるものよとの弱々しい声がある。しかしその声に応じて縋《すが》りつくものが欲しいではありませぬか」
「縋りたいという意識の生じ得ない刹那がいっそう高い。とにかく人間の現象のなかでは驚きということがいちばん高いなあ」
私は口を緘してじっと考えた。明け放した障子の間から吹き込む夜風はまたしても蚊帳の裾《すそ》を翻した。突然柱時計が鳴り始めた。重い、鈍い音である。数は三つであった。
今宵は形而上学的な友である。ランプの黄ばんだ光は室をぼんやり照らしている。
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