か与えてくれるものではない。それは事実である。けれどもそのためなぜに愛されたい願いを捨てなくてはならないか? その願いは善い純な人間性の稟有《ひんゆう》するところのものである。純な善い願いはいかなることあるも殺してはならない。人間の生命はただそれのみに繋がって意味を有するのである。もし愛されたいと願っても愛されないならば歎くがよい。そして歎きつつなお愛されたいと願うがよい。それが本道である。私の考えでは私たちは理想によってのみ生きられる。理想と現実とは独立したものである。理想が現実と衝突するならば悲しいけれども、そのために理想を捨てあるいは理想を低くせねばならぬ理由はない。理想は理想として建ててただ悲しむべきである。理想をあきらめてはならない。愛されたい願いが善い願いならば事実として愛されなくとも、死ぬるまで依然として愛されたいと願うべきである。人間に宗教があるのはそれがためである。すなわちまず人間は雑然として何ものかを要求する。それは事実に当たってみたされない。そこで要求のなかから欲と願いとを分けて欲はあきらめる。その願いも感情が深くなるに従って純化されてゆく。そしてもしあきらめられるものならば皆あきらめる。しかるにどうしてもあきらめられない、それをあきらめては私たちの本質の死ぬる願いがある。それは愛である。愛することと愛されたい願いである。現実においてこの願いはみたされないとみたのは親鸞であった。ゆえに彼は宗教の彼岸においてこの願いをみたさんことを工夫したのである。絶対に仏に愛されることと、成仏して絶対に衆生を愛することとを信じたのである。私たちは愛されたい願いと愛したい願いとを持っている。この願いはけっしてあきらめられず、またあきらめてはならないものである。私たちは与えることと受け取ることの自由が得たい。与うることの自由とは客観の原理に束縛せられずして独立に与うることである。与えることの自由を得んことは、深い人はみな憧れ求めている。ここでは私たちは特に受け取ることの自由について考えたい。対人関係の徳として受け取ることは与えることよりも小さいものではない。私たちは受け取ることの徳を得ないならば偉い人間とはいえない。人間と人間との接触の滑《なめ》らかにゆかないのは一つは近代人が受け取ることの徳を持っていないからである。人の愛を受け入れない、ある人は求めず、与えず、
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