にたとえた詩人を思う。麻のなかに高居した、毅然《きぜん》たる威厳を持っている芸術家はたいがい純潔な人のようである。争われぬものである。女にずるいのは男の常ではある。しかしそれに身を任せるのと誘惑として戦うのとは大した相違である。できるだけいろいろな種類の女を、できるかぎりたくさん味わうことを自分の快楽の標準のようにしている人が今の文壇にはきっと信じられぬほど多いであろう。そういう人々に対しては私は「報い」ということを考えてみよといいたい。私がこういうことをいっても、取り合われないかもしれないが、私は「報い」というものは本当にあるのではないかと思っている。私は初めは不幸に打ち砕かれたような心で妹に「私はよくよく前世に悪いことをしたのだろうよ」と冗談にいった。ところがだんだんそれが真面目に思われるようになった。私は今ではほとんど信じているといってもいい。病院にいま十九になる少年が大やけどをして、泣き叫んでいる。私は今日も見舞いに行って、その少年の母親の顔を見ているとき、やはりそう思った。何かの報いと考えるのがいちばん本当らしい。少なくとも、これまで私の聴いたいかなる説明より私には信じやすい。(私はけっして思わせぶりでいっているのではない)。いま一人の娘を犯して舌鼓《したつづみ》を打っても、その快楽を償うてあまりある苦痛をいつか本当に受けなくてはならなかったらどうだろう。酷い酷い肉体的苦痛を報いられたらどうだろう。(注射を一本して貰うのでも、どれだけ嫌なものか肉体的苦痛に感じやすい今の文士は知り抜いてるはずである)。あるいは清い清い良心を与えられて、その女に赦しを乞うても、どうしても赦すといってくれなかったらどうだろう。いかなる形式かは知らないが、私は悪には必ず報いがあると信じている。私のかかる思想はある人々には児戯に類するであろう。しかし私はけっしてそうは思えなくなっている。かかる問題に触れるとき心はいちばん緊張する。真偽はいつか解るだろう。もし本当だったらなんとするとだけ今はいっておく。(いま私の心はセンチメンタルではない。理知的な心持ちでここを書く)
一、言葉で突っ込まずに生活で突っ込むがいい。それも歓楽の方へでなく十字架を負う方面へ突っ込んで見せてくれ。何人がいざとなった場合、本当に思いきった態度に出で得るかは論争では解らない。私は論争好きな人に、かえって学校を
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