はいられない、恋をしている青年が、ある文士が温泉に行って一人の舞妓と関係し、また一人の芸妓と床をともにするために、その舞妓を人形芝居に欺して連れて行かせるというようなことを中心興味にした作品が本気で読めるだろうか。心のうちに真面目な煩悶を持っている者は、物足りなさを通り越して、不愉快を感ずるであろう。多くの文士は興味の置き所が人心の深き願いのうちに無いゆえに、その感情には何よりも永い感じ[#「永い感じ」に傍点]が欠乏している。たとえば「別れ」というようなものは人生の深い深いイーヴルである。ただその一事のみにて人生は厭うべきものといってもいいほどのイーヴルである。しかもそのようなものは今の文士には大した苦にはならないようにみえる。「彼《か》の世」のことなどはまるで問題にならないようにみえる(釈迦はそれを非常に苦にしたが)。これに反して皮肉《アイロニイ》というものに対して異常な興味を示している。皮肉という感じは人間が真に本気になって何者かに関心しているときにはけっして起こり得ないものである。たとえば手術を受けるために手術台に寝ているとき、愛する者の臨終に侍しているときなどには起こり得ない。ある一つの矛盾した事象に対したとき、それをどうにもして調和させたいとあせっている心には起こり得ない。皮肉はそれ自身積極的内容を持たない情緒である。怒りよりもなお悪質な情緒である。私は他人が自分を非難したのではあまり腹は立たないが、皮肉な態度を示すと心から腹が立つ。事物の真相を見る鋭い目を持つものが、虚偽と矛盾とに対して皮肉に反応するのは無理からぬ過程ではある。しかしそれは本道ではない。耶蘇はこの世の虚偽と偽善とを知り抜いていた。しかし皮肉に反応しないで、それらを地上から除去する道を本気に工夫した。ショオと耶蘇では深さが違う。聖書や『歎異鈔』のなかには皮肉な調子はどこにも見えない。トルストイやドストエフスキーの作にも皮肉はある。しかしそれは彼らの作の尊い部分ではない。皮肉な目には人生の真景は映らない。人生を見る目はあくまでも濡れ輝かなくてはならない。ことに対人態度に皮肉を出してはいけない。もしそれおのれみずからに対して皮肉になるにいたっては、私は深い深い宗教的な罪だと思う。もし作品のなかに皮肉の要素が混入するときは、あるいは皮肉をその作品の主なる構成要素となすときは(喜劇などの場合)その
前へ 次へ
全197ページ中174ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング