、三番よりは下らないんですよ」といったとする。するとすぐに反感と軽蔑とを起こして、そんなことは誇るに足りないとか、何ゆえ一番を理想としないかといって母親の心を傷つけてしまう。母親の思想はつまらないかもしれない。しかし「それはおたのしみですね」といって、しばらく母親の心を守ってやることは、けっして「おざなり」ではない。人と人との接触の幸福はそういうところにあるのである。また対談中対手の欠点に触れたとき、その人はすでにそれを認めて恥じているのになお突っ込むのは心なき業である。私は今の文士の多くが強いことだと思っているこの突っ込み[#「突っ込み」に傍点]をいっこう強いという感じを受けずにオフェンシブな、もしくは不必要な感じを受ける場合があまりに多い。私には感じやすい、きわめて傷つきやすい、純潔な心を持ってる友人がある。その友をもし今の文士たちと一座させたらどんな結果になるだろうと私はときどき想像する。きっとすぐに傷つけられるだろうと思わずにはいられない。そしてその友が隠遁して、静かに書を読み、絵を画いている今の生活法を、もっともだと思わずにはいられなくなる。彼らにもし自分の弱いところを見せるならば、すぐに突っ込んでくる。醜いところを見せればすぐに軽蔑する。謙遜に出ればすぐに高く出てくる。そしておのれと彼といずれが優越しているかというようなことに、絶えず特殊な執拗な興味を抱いている。かかる人と対談して交わりからくる幸福を味わい得るであろうか。ロマンチックなことをいったり、訴えるような気になれたり、無邪気な誇りや、甘えをさえも受けいれたりし合ってこそ、交友の幸福はある。私はだんだんかかる交友の幸福を失ってゆく。本当にしみじみと語り合うことは稀である。他人の心を受け取る用意のできている対談者に出逢わない。一般に受け身の徳に関して文士は貧にして粗である。私はその原因を彼らの心の濡れていないことに帰したい。何ゆえに心が濡れないか。彼らは魂の内に不幸を持っていないからである。かかる魂の不幸は外的境遇のいかなる順調をもってしても打ち克ちがたきものとして、深人は皆それを胸中に蔵している。かかる 〔seelenunglu:cklichkeit〕 は人間が、真に人間として願うべきねがいが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。それが感じられないのは本当におのれの願うべきものを、一すじ
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