ように見ゆる。中につきても、私はその最も忌むべきものの一つとして、愛と肉交との問題を挙げずにはいられない。
 男女が肉体の交わりをなすことは、日本の在来の習慣(あえて道徳とはいわない)ではなんらかの形式において社会的公認を得たる夫婦の間においてのみ正しとされた。近代人はまずこの思想を毀《こわ》した。私もこれに対してはなんらの異議も持たない。道徳は社会制度の規定より生ずるものではない。天の下、地の上に人間と人間とが交わるときに、われらの心の奥に内在する真理の声によって定まるのである。たとい夫婦の間に行なわるる肉交のみが正しとするも、(私はそれをも認めないが)そは夫婦なる社会上の規定にその根拠を持たずして、夫婦関係に特在するある事情がそれを許すのでなくてはならない。これに次いで来たるものは、恋愛が存在する男女間の肉交は正しとする思想である。この思想は新人の間に最も認めらるる思想であって、ここに私は主としてこの思想に対する私の疑点を述べたいのである。このほかになお一般に絶対に肉交を是認する思想がある。その唯一の理由は肉交は人間の自然に与えられたる生理的要求であるからであるというのである。しかし、それは道徳とは何の関係もない、単に事実である。存在の法則から価値の法則を導くことはできない。単に要求といわば、人間のすべての行為は形式上要求の充足である。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして生ずるものはない。けれど道徳はそれを善しと見あるいは悪しと見ることができる。ドイトリッヒにいわば、人間のあらゆる要求をばことごとく悪しと見ることも可能なのである。さて、愛があれば肉交をしても善いという思想はどこにあるのであろうか。それは愛を善しと見る、しこうして肉交は愛の必然的結果であるというのである。おもえらく、生命は第一に精神と身体との無関係の別個の両存在ではなく、この二者は一如である。一つの全体としての生命の二つの顕現である。肉体は精神の象徴である。一つの全体として生命を内観すれば精神であり、外より官能を透して知覚すれば身体である。ゆえに内にありて心と心との抱合は、外にありては肉と肉との抱合である。愛が最高潮に達せるとき、それを外より見れば肉交となる。すなわち相愛の男女の心と心との抱合を象徴するがごとき肉交は善いというのである。かつて私はこの思想を信じた。そして私は単に肉交を許さるべ
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