の瓔珞《ようらく》を頂ける聖き人の像を仰ぐべきである。みずからその像に似んことを願うべきである。宗教はその願いの成就すべしとの約束(心証)である(私の考えでは彼《か》の世において)。それは夢であろうか? 親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。M氏は三十にしてすでにそれを捨てたのに! 私はここでもまた口を緘ぐ。なんとなれば私の心証はそれが夢でないことを宣言するほどいまだ熟していないから。しかし宗教的感情は若さや、世相に対する鈍感や、頭脳の簡単なることなどによってわずかにその情熱を支持さるるがごときものではけっしてない。ある人々にとってはそはじつにたとえば食欲のごとく稟在的なものである。われらは年老いて世相を見ることいよいよ複雑に、悪を知ることますます鋭く、しかも多くの不幸に打たれ、なおかつ、いよいよ深き情熱を示したる宗教的先人をわれらの祖先に持っている。近代もまたトルストイのごとき人を持っている。われらの人生を見る目はただあくまでも濡れ輝かねばならない。人生の真景はかかる眸《ひとみ》にのみ映ずるのである。皮肉な目には真実相は映らない。皮肉になるときわれらの心はもはや「徳」の中に成長を止める。しかし皮肉になりたくてもならぬとき、あくまでも真直に濡れて悲しんで人生を見る人はぐっと進んで行く。皮肉はなんら積極的意義のない自殺的情緒である。耶蘇は人間の醜さや、偽善を知り抜いていた。けれど彼はそれに対して皮肉にはならなかった。ただそれを悲しみ、人間の「徳」を完成せしむべき道を工夫しようと努めた。他人に対してことにみずからに対して皮肉になってはならない。私は自分の醜さを平気で何の痛ましげもなく告白する人は真面目な告白者とは思えない。トルストイもコンフェッションを書くまでには幾度も躊躇した。みずからに対して皮肉になることは最も性質の悪いいわゆる Unpardonable sin ともいうべきものである。私はかかる問題を考えるとき、ある一つの深き宗教的罪悪というごときものの観念に導かれる。そして人間の運命には人間の私有物ではなく仏の分身なるがゆえに自己の生命に対する義務意識があるのではあるまいかというごときことが考えらるる。自殺したり、自己を呪《のろ》うたりすることはあるおのれならぬものを犯すのではあるまいか。私は皮肉を最も嫌うものである。私の尊ぶトルストイやド
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