心が濡《ぬ》れ輝いているときには、同胞に向かって呼びかけたくなるものである。しかし自分には同胞の運命を直くするほどの実力があるのではない。触《ふ》るるところのものを幸福にするだけの器量があるのでもない。しかし黙って祈ってのみいるには堪えられない。しからばどうすれば善《よ》いのであろうか。私は考え悶えた。自分のうちに円熟するまで働きかけるのを待つならば、いつまで待ってもそのような時期が来べしとは思われない。ついに「いまだ画かざる画家」となり、「いまだ説かざる説教者」として終わらなくてはならなくなりそうである。なんとなれば真理といい、力というものは一時にその絶頂に達し得られるものではなく、その内容を少しずつ体験しながら、しだいに aneignen してゆくものであるらしいからである。かくのごとくしてついに同胞とその苦しみや、喜びを分け持つことなしにみずからの切り離された生活のうちに蟄居《ちっきょ》するのが知恵ある生活であろうか。また祈りの心持ちのなかには深い実践的な気持ちが含まれている。祈りとはむしろ実行精神の最深なるものである。「愛児の病気のなおれかし」との祈り、よもすがら病児の枕頭に侍して、身も心も疲れた母の心に起こる切願である。黙祷に対して「体祷」というようなものが真の祈りである。また隠遁しても、絶対的に他人に荷を負わすことなしに生きることはできないのである。むしろ他人の喜捨のみで生きるのが真の聖人の生活であるらしく思われる。かく考えてくれば私はどうしてもここで地上の約束、モータルとしての人間のさだめ[#「さだめ」に傍点]に触れずにはいられない。すなわち互いに傷つけずには生きられないのである。宗教心とはこの恐るべきさだめの内にかえって造り主の愛を見いだす心をいうのであろう。そこで私は考えた。私は高い処にみずからを置いて説教しようと思うから、発言することができないのである。人々と与《とも》に歩め。与《とも》に真理を研《きわ》め、与《とも》に徳を積め。「共存者よ、私はかく感ずる。御身はいかに考えるか。善いところがあれば用いてくれ。誤ってるところは教えてくれ。私を愛してくれ。私は御身を祝する」とこういう態度で話しかけたらどうであろう。それでも他人を傷つけないと保証することはもとよりできない。おそらく傷つけもするであろう。そして自分も傷つけられもするであろう。しかし絶対的
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