驍謔、になり、捨てたものをも拾い、裁いたものをも赦し、ようやく心の中から呪いを去って、万人の上に祝福の手を延ばすように、博く大きくなりたいのである。魂の内なる善の芽を培うて、「空の鳥来たってその影に棲む」ような豊かな大樹となしたいのである。造り主の名によってすべての被造物と繋りたいのである。ああ、私は聖者になりたい(かく願うことがゆるさるるならば)。聖者は被造物の最大なるものである。しかしながら聖者といっても私は水晶でつくられたような人を描くのではない。私の描く聖者は人間性を超越したる神ではなく、人間性を成就したる被造物である。それはつくられたものとしての限りを保ち、人生の悲しみに濡れ、煩悩の催しに苦しみ、地上のさだめに嘆息しつつ、神を呼ぶところの一個のモータルである。真宗の見方からはなお一個の悪人であって、「赦し」なかりせば滅ぶべき魂である。私は罪のなかに善を追い、さだめのなかに聖さを求めるのである。私はたとい、親鸞が信心決定の後、業に催されて殺人を犯そうとも、パウロが百人の女を犯そうとも、その聖者としての冠を吝《おし》もうとは思わない。
願わくばわれらをして、われらがつくられたるものであることを承認せしめよ。この承認はすべての愛《め》でたき徳を生む母である。しこうしてつくられたるものの切なる願いは、造り主の完《まった》さに似るまでおのれをよくせんとの祈りである。
[#地から2字上げ](一九一六・一〇・一)
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他人に働きかける心持ちの根拠について
人間には他の人間の群れに対《むか》って呼びかけたい願いがある。いま私はそのねがいが熱と潤いとを帯びて心のなかに高まるのを感ずる。私は話しかけたい。私はその願いを人間らしい、純なものとは知っていた。けれど私にはその願いを行為に移す路筋《みちすじ》で心のなかに深い支障があった。私は永い間黙ってこらえてきた。そのために魘《うな》されるような気がしながら。
私は私の師からも大衆に向かって話しかけることを誡《いまし》められている。それは今の私の器量では他人に働きかけるのは他人を傷つけることだという道徳的の理由からである。私は師の心を察して涙ぐむ。しかしそれにもかかわらず、私は今これから他人に向けて働きかけようとしているのだ。私は今の世の多くの人々が私に話しかける心持ちの根拠の説明を迫るほど、他人の運命を畏
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