ホならない。宗教はこの二つの性質を兼ね備えたものである。キリストはいかなる罪をも赦した。しかし罪の価は死なりといった。罪の裁判はできるかぎり重くなくてはならない。そしてその重き罪は全く赦されねばならない。甲が乙を撲《なぐ》ったとする。このとき、そのくらいのことは小さなことだとして赦してはならない。人間が人間を撲ることはけっして小さなことではない。それは地獄に当たる罪である。しかしその大罪を全的に赦すのである。阿部氏は「私は人を愛したい。けれど憎むに堪える心でありたい」といってる。私もしか感ずる。もし私が私を愛するがごとく他人を愛しているならば、私みずからを憎むがごとくに他人を憎み得るであろう。愛は闘いを含み得る。純粋なる愛の動機より、他人と闘うことができるようになるならば、その愛はよほど徹した内容を持っている。
現に宗教的天才はかかる闘いをなしている。キリストも、エルサレムの宮で鳩《はと》を売るもののつくえを倒し、繩《なわ》の鞭を持って商人を追放した。私は初めは、キリストのこの行為を善しと見ることができなかった。それは愛と赦《ゆる》しとの教えに適《かな》わないと思われたからである。しかし私はこの頃は、愛しつつ赦しつつ、かく為《な》すことができると思うようになりだした。おのれを釘づけるものを赦したキリストに、この商人が赦されないとは考えられない。愛はたたかいを含み得る強いものであってさしつかえはない。ただ私はそのたたかいが、他の一面において祈りの心持ちによって義《ただ》しくされることをねがう。
けだし、私たちはゾルレンを掴《つか》むことにおいて自信のない愚人である。たたかいが愛のみの動機より発することのできかねるエゴイストである。他人の運命を思えば黙《もだ》しがたく、しかも働きかけることが、他人を益するとの自信を握りかぬる弱者である。「どうぞこの人を傷つけませぬように!」と祈る心持ちなくして、安んじて働きかけることはできかねるからである。たたかいと祈りとは、愛の二つの機能である。愛が実践的になるとき、必然に生み出される二つの姉妹感情である。そして相互を義しくする。哲学的絶対を求めて後に愛そうとするならば、私たちは祈ることも、戦うこともできない立往生になる。けれど、私は真理はだんだんに知られてゆくものと思う。もし愛のなかに実感的な善を体験して、それに圧されて愛しなが
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