オて、今はどこにいかなる生活をしているやら、わからない人々があることだろう。そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。このときもし愛の深い人であるならば、堪えがたき無常を感ずるであろう。そのときほとんど私たちは愛する力も、知恵もないことを感ずる。そして、ただ愛したい願いだけが高まってゆく。――そして運命の力を感ずる。『歎異鈔《たんにしょう》』のなかにも、何人も知るごとく、

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 慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふが如く助けとぐること、きはめて有り難し。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏となり、大慈大悲心をもて、おもふが如く、衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとく助けがたければ、此の慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき。
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 と書いてある。私も親鸞《しんらん》聖人のこの心の歩みの過程に、しみじみと同情を感ずる。すなわち親鸞聖人は念仏によって完全な愛の域に達せんと望んだ。私はこの計画の実際的効果をまだ信じ得ないけれど、愛を思えば祈りの心持ちを感ぜずにはいられない。もとよりいまだこの祈り聞かるべしと信じての祈りではない。しかし祈りの心持ちを感ずる。そして私は今ではこの心持ちを伴わざる愛は、けっして深いものとは思われなくなっている。どうぞ私がこの少女の運命を傷つけませぬように! 昔あの海べで別れた病める友、今はどうしているかわかりませぬが、どうぞ幸いでいますように! 私は多くの忘れ得ぬ人々の、今はゆくえも知れぬ人々の運命を思うとき、しみじみと祈りの心持ちを感ずる。祈るよりほか何も許されてないではないか。そして、その祈りの真実聴かれると信ずる信仰家は、いかに祝福されたる人々であろうと思わずにはいられない。
 また私たちは愛することは自由でも、愛を表現することは、もはや他人と関係したことで自分の自由ではない。他人が自分の愛を accept してくれないのに、愛を表現することはその人のわがままである。私のある友達が「彼に手紙を出したいけれど、よけいなことだと思われてはと思って差し控えている」といったと聞いて、私はその人の心持ちがよく理解できた。「私はあなたを愛します」と
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