髣魂をして孤独を保たしめよ。隠れんと願うものをして自分の適する処にかくれしめよ。
隠遁はじつに霊魂の港、休憩所、祈祷《きとう》と勤行《ごんぎょう》の密室である。真の心の静けさと濡れたる愛とはその室にありて保たるるのである。
かの仏遺教経の遠離功徳分にあるごとく「寂静無為の安楽を求めんと欲す」る比丘《びく》は「当《まさ》に※[#「りっしんべん+貴」、第4水準2−12−70]閙《かいどう》を離れて独処に閑居《かんきょ》し」「当に己衆他衆を捨てて空間に独処し」なくてはならない。「若《も》し衆を楽《ねが》うものはすなわち衆の悩《なやみ》を受け譬《たと》えば大樹の衆鳥|之《こ》れに集ればすなわち枯折の患《わずらい》有るが如《ごと》く」また「世間に縛著《ばくちゃく》」せられて「譬えば老象の泥《どろ》に溺《おぼ》れて自ら出《い》ずる事|能《あた》わざるが如く」であろう。自分は「静処の人」となって「帝釈諸天《たいしゃくしょてん》の共に敬重する所」とならんことを希《ねが》うのである。
[#地から2字上げ](一九一五・一一)
[#改ページ]
愛の二つの機能
愛は自全な心の働きであって、客観の条件によりて束縛せられざるをもって、その本来の相としなければならない。相手のいかなる状態も、いかなる態度も、いかなる反応も超越して、それみずから発展する自主自足の活動でなければならない。ゆえに純なる愛は相手のいかなる醜さ、卑しさ、ずうずうしさによっても、そのはたらきの倦《う》まざるものでなければならない。それは事実において至難なる業《わざ》ではあるが、私らの胸に当為《とうい》として樹《た》て、みずからの心を鞭《むち》打たねばならない。けれど、私がここに語りたいのは、この当為にはけっして抵触せずに、いなむしろこの当為を践《ふ》み行なわんために、愛より必然に分泌せらるる二つの機能についてである。それは祈祷と闘いとである。愛が単なる思想として固定せずに、virtue(力)として他人の生命に働きかけるときには、この二つの作用となって現われなければならない。
愛とは前にも述べしごとく、他人の運命を自己の興味として、これを畏《おそ》れ、これを祝し、これを守る心持ちを言うのである。他人との接触を味わう心ではなく、他人の運命に関心する心である。ゆえに愛の心が深くなり純になればなるほど、私たちは運命と
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