セけにたいていの人は気に入らない方が多い。心から交わりたいような人はきわめて少ない。ゆえに多くの場合には心にもない表現をしなければならなくなる。加うるに自分をして最も他人から隠遁せしめようと欲せしむる本質的な疑問は自分がかくして人と交わっても対手《あいて》の人に何ものかを与え得るであろうかということである。自分はこの点を深く反省するときにほとんど交わるゆえんが無いような気がする。第一心から愛に動かされないでいかほどのこともできるものではない。愛があっても知恵と徳とのとぼしい自分たちは他人と交われば他人の運命を傷つけないではおかない。与える自信よりも傷つける恐怖の方が強い。ことに自分は若い女と交わるときはこの感じが最も強い。自分は今では若い女を愛することは自分の手に余る仕事であると思っている。女に逢うと何もかも嘘になる。そしてたいがいは対手の運命を傷つけることになる。いかなる者をも避けないで交わるべきかいなかということは、じつは自分の徳の力量によって決定しなければならないことではあるまいか。「煩悩の林に遊んで神通を現ずる」ことのできるのはただ煩悩を超脱せる聖人のみである。桃水や一休ほどの器量なきものが遊女を済度《さいど》せんとして廓《くるわ》に出入りすることはみずから揣《はか》らざる僭越《せんえつ》であり、運命を恐れざる無知である。自分たちは万人を愛しなくてはならないが必ずしも万人と交わらなくてはならないことはない。対手の運命を傷つけない自信がないのに交わってはならない。加うるに自分は病身で不徳でかつかいしょ[#「かいしょ」に傍点]がなく、他人と交わっても他人の役に立つことができないのみか、むしろ負担になる。自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」といったそうである。自分はそれを聞いたとき深く胸を打たれた。自分だってその人と交わりたくて交わっているのではない。交わらなくてはすまないと思って努めて交わっているのである。そして向こうでも同じことを感じているのである。自分はじつにあさましい気がする。そして自分の交友関係というものについて、そのなかにふくまるる虚偽と自偽と糊塗《こと》との醜さを厭う心をしみじみと感ずる。そして心を清く、平和に保ち、自他の運命を傷つけない知恵のために人を避けたい願いを感じないではいられない。いな交
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