る黄河の流れを貪り汲まんとする彼らをして、ローマの街にありという清洌なる噴泉を掬《く》んで渇を潤すことを知らしめねばならない。
思えば今を距《さ》る二千六百年の昔、「わが」哲学がミレートスの揺籃を出《い》でてから、浮世の嵐は常にこの尊き学問につれなかった。しこうして今日もまたつれないのである。故国を追われて旅の空に眼鏡を磨きつつ思索に耽ったスピノーザの敬虔なる心の尊さ、フィロソフィック・クールネスの床《ゆか》しさ! 僕らはあくまでも尊き哲学者になろうではないか。私はH氏のものものしき惑溺《わくでき》呼《よば》わりに憎悪を抱き、K氏の耽美主義に反感を起こし、M博士の遊びの気分に溜息を洩《も》らす。M博士は私の離れじとばかり握った袂《たもと》を振り切って去っておしまいなすった。私はかの即興詩人時代の情趣|濃《こまや》かなM博士がなつかしい。かのハルトマンの哲学を抱いて帰朝なすった頃の博士が慕わしい。思えば独歩の夭折《ようせつ》は私らにとって大きな損失であった。
底冷たい秋の日影がぱっと障子に染めたかと思うとじきとまた暗くなる。鋭い、断《き》れ断《ぎ》れな百舌鳥《もず》の声が背戸口で喧《かしま》しい。しみじみと秋の気がする。ああ可憐なる君よ、(可憐という字を許せ)淋しき思索の路を二人肩を並べて勇ましく辿《たど》ろうではないか。行方《ゆくえ》も知れぬ遠い旅路に泣き出しそうになったらゼームス博士を思い出そう。哲学者は淋しい甲蟲である! お互いに真面目に考えようね。
お手紙拝見。お互いに青春二十一歳になったわけだね。でも苦労したせいか僕の方が兄のような気がしてならない。昨年の正月の艶々しい恋物語を知ってるだけに、冷たい、暗い、汚い寮で侘《わび》しく新年を迎えた君がいっそうのこといとしい。君は私と違って花やかな家庭に育ったんだからね。T君が君をロマンチックだって冷笑したって。かまうものか。彼の刹那主義こそ危いものだ。なぜというに、彼の思想には中心点が無いからだ。彼の「灰色生活」は虚偽である。みたまえ。彼の荒《すさ》んだ生活には、ああした生活に必然伴うべきはずの深刻沈痛の調子は毫も出ていないではないか。さて僕だ。例によって帰省したものの、ご存じのとおりの家庭ゆえあまりおもしろくない。でもさすがに正月だ。門松しめ飾り、松の内の八百屋町をぱったり人通りが杜絶《とだ》えて、牡丹雪
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