v素の見えない盲目的生活である。最も befangen されたる、束縛されたる、隷属の生活である。かかる生活よりは真に堅忍にして持久なる底深き力は出ないであろう。火山の爆発のような一時的な暴力は出るかもしれない。しかしながら高山の山腹を少しずつ見えない速度で、しかし支うべからざる圧力で、収効果的《エフェクチブ》に滑《すべ》り落ちる氷河のような力は生じないであろう。動くものの全体としての静けさの感じられるような力が真に偉大なる力である。私はかかる力に憧《あこが》るる。かかる力は統一されたる要素の豊富なくしては生じない。私らは熱烈とか驀直とかいう文字に欺かれてはならない。貧寒な data で熱烈になるよりは、豊富な data でまとまらずに、淋しく生活をする者が強い人である。真の単純化は至難のことである。さればこそ精神生活の向上と精進とはかぎりなき苦しき努力となるのである。ノラは家出をして自己の道を拓《ひら》こうとした。またある妻は躊躇して家に止まった。それゆえにノラの方が強い女だという人があるならば浅薄である。強いとか弱いとかいうことはしかく外的に決せらるるものではない。家に残った妻はノラよりも、もっと多くのことを考えたかもしれない。夫と自分との関係、子供と自分との関係、その間に見いだされる自己が家出の足を止めたかもしれない。ノラの方が自己に忠実であるとは必ずしもいえない。多くのことを心に収めて考えることのできる人は強いといわねばならぬ。徹底するのは真理がするのである。行為が外的にすばらしい[#「すばらしい」に傍点]のをいうのではない。真理が徹したために、行為が目立たないものに止まることはある。かくて人目に立たず、オブスキュアに、しかも内面の自己の徹底にみずから満足して生きてる人があるならば、私はその人を打ち仰いで尊敬する。筆を持つものは特にここを一考せねばならない。私はみずから気付かずにこの表現の Fallacy に陥っていたように思われる。自己の表現と発情とに覚えず自己を捲き込んでいたような傾きがある。それがために私の思索が混雑し、単純化が精緻を欠き、統一の外に取り残された data があった。たとえば性欲とキリスト教的愛とが混淆《こんこう》し、彼女以外の人に内在する私の自己が取り除かれたりしていた。その部分から私の精神生活は崩れていった。しかし思えばそれはイデア
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