スめによろこばしからぬ現象だと思う。じつに校内においてときめき栄えてるのはあなたのような人らではないか。私らは隅の方に圧し潰されそうになって、ようやく身を保ってるような形である。いくら叫んでも私らの声は通らない。試みに演壇に立ってみよ。君は聴衆を味方として感ずることができるであろう。私をしてあなたに代わらしめたならば疑いの目、冷たい目、嫌厭《けんえん》の目を顔に浴びねばならない。あなたの考えてるようなことは何の苦もなく発表できる。私の考えてるようなことはなかなか発表できない。こうして書いていてもこれが部長のところを通過するかどうか心もとないのである。校友の優しい目を予期して私が提供した、私にとっては一生懸命であった実際生活の報告書は私を囚人のごとき姿して、私を審《さば》かんとする校友の卓の前に立たせたではないか。私の先生の一人は晩餐会の席上、「いかがわしいことを書いた」というぼんやりした理由で私を学校の名誉を傷つけた不良少年とならべられたではないか。Y君よ、私らが何ではびこられるものか。それは安心してそれよりもあなたの周囲に、あなたの真面目な点だけを抜いた残りの部分だけあなたにはなはだよく似た人々のはびこることを私と共に心配したまえ。あなたの声望はあなたの周囲に子分を作った。私はあなたの周囲に漂う気分を好まないものである。それは真実なる生命の進転を妨げるものである。一高を化して常識の府となさんとする忌むべき傾向を孕《はら》んでいる。たとえばいわゆる演説家とクリスチャンの増加するのは私は眉を顰《ひそ》める。演説家はまだいい、クリスチャンの踵《きびす》を接して生ずるのは最も苦々しき事実である。一人の人間が信仰生活に入るのだって私は容易ならぬできごとだと思う。ほとんど奇跡に対するほどの驚異の目をもって見るべき大事実だと思う。それがどうしてわれもわれもと信仰生活に入ることができるのであろうか。信仰生活の大安心、大喜悦の中に入り得るためには、血を吐くような深刻な悩みと、砂漠をうろつくような彷徨と、大地のずり落ちるような不安と、盲目になるほどの迷いとがあるべきはずだと思う。どうしてそうやすやすと市街を歩いてる人がふと教会堂に入るように信仰生活に入ることができるのであろうか。私はどうしても理解することができない。私は彼らの信仰を疑わずにはいられない。キリストの人格を崇拝する点にお
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