いちゃくしゃ》にはなりたくてたまらぬのだが、それには欠くべからざる根本信念がこの幾年目を皿のごとくにして探し回ってるのにまだ捕捉できない。といって冷たい人生の傍観者になんでなれよう。この境に彷徨《ほうこう》する私の胸にはやるせのない不安と寂愁とが絶えず襲うてくる。前者は白幕に映ずる幻燈絵の消えやすきに感ずるおぼつかなさであり、後者は痲痺《まひ》せし掌の握れど握れど手応《てごた》え無きに覚ゆる淋しさである。ときどきこんな声が大なる権威を帯びて響きくることがある。

「はかない人知で何を解こうとしてるのだ。幾年かかれば解けるのだ。それを解決してからがおまえの意義ある生活ならばそれは危いものだ。初めから意義ある生活を打算してかからぬ方がましかもしれぬよ。疑惑の雲の中へ頭を突き込んでやがては雲の一部分に消え化してしまうのであろう」

 一度は恐れ戦《おのの》いてこの声にひれ伏した。が倨傲《きょごう》な心はぬっと頭を擡《もた》げる。
「いくら苦しくても、意義が不明でも、雲の中へ消え込んでも、その原因は私の意志どおりをやってきたからだ。世の中に思いどおりをやるほど好いことがあるものか。それに私はある女(真理)に恋慕してるのだ。なるほど対手《あいて》の顔はまだ見ない。しかし彼女はきっと美しい崇《とうと》い顔を持ってるに違いない。まだ見ぬ恋の楽しさを君は知るまい。私の恋が片思いに終わるとは断言できまい。今に彼女は必ず私に靡《なび》くよ。白い雲の上で私を呼んでいる彼女の優しい上品な声が聞こえるような気がする。考えてもみたまえ。互いに胸を打ち明けてからもおもしろかろうが、打ち明けぬうちも捨てがたいではないか。私はいかにしても思い切る気はない」

 君、僕はこんなことを考えて沮喪する心を励ましているのだよ。いつもの話だがどうもわが校には話せる奴《やつ》がいない。O市の天地において僕は孤独の地位に立ってる。から騒ぎ騒ぐ野次馬、安価なる信仰家、単純なる心の尊敬すべき凡骨、神経の鋭敏と官能のデリカシイとに鼻|蠢《うごめ》かす歯の浮くような文芸家はいるが、人生に対する透徹なる批判と、纏綿《てんめん》たる執着と、真摯《しんし》なる態度とを持して真剣に人生の愛着者たらんと欲する人は無い。例の瘰癧《るいれき》のO君とはただ文学上において話せるのみだ。彼は根本的思索には心が向かっていない。彼は考えずして
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