顔の上へ近づけた。
「あッ」と声は出なかったが、菊弥は、抑えられている口の中で叫んだ。その顔が、お綱の顔だったからである。峠で、昨日、自分をとらえて挑戯《からか》った、「醒ヶ井のお綱」の顔だったからである。
「うふ!」とお綱は、薄い、大形の唇から、前歯をほころばせて笑ったが、強い腕の力で、菊弥をズルズルと蔵の奥へ引き摺って行き、依然として馬乗りになったまま、今は、外光さえ届いて来ない闇の中で、囁くように云った。
「菊弥! ナーニ、本名を云やアお菊か菊女だろう! 手前、女だからなア! うふ、いかに男に姿やつしていようと、この綱五郎の眼から見りゃア――そういう俺らア男さ! ナニ『醒ヶ井のお綱』だって! 箆棒めえ、そいつア土蔵破《むすめし》としての肩書だア。……この綱五郎の眼から見りゃア、一目瞭然、娘っ子に違えねえ!」
人か幽鬼か
「ところで俺ら約束したっけなア、もう一度きっとお目にかかるって! さあお目にかかった。どうするか見やがれ! ……女に姿やつしてよ、中仙道から奥州街道、東海道まで土蔵を破らせりゃア、その昔の熊坂長範よりゃア凄いといわれた綱五郎、聞きゃア草深え川路の山奥に納谷という
前へ
次へ
全30ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング