を蔽うようにして繁っている、背後の樺の林の中へ走り込んだ。でも、そこから振り返ると、
「醒ヶ井《さめがい》のお綱《つな》は、やるといったこときっとやるってこと、菊弥様、覚えておいで」
婢《おんな》に案内され、薄暗い部屋から部屋、廊下から廊下へと、菊弥は歩いて行った。
「このお部屋に奥様はお居ででございます」と云いすてて、婢が立ち去った時、菊弥は、古びた襖の前に立っていた。
菊弥は妙に躊躇されて、早速には襖があけられなかった。姉とはいっても、嬰児《みずこ》の時代に別れて、その後一度も逢ったことのない姉のお篠《しの》であった。
(どんな人だろう?)という懸念が先立って、懐しいという感情は起こらなかった。
(いつ迄立っていても仕方がない)
こう思って菊弥は襖を開けた。
しばらく部屋の中を見廻していた菊弥は、「あッ」と叫ぶとベッタリ襖を背にして坐ってしまった。
この部屋は、宏大な納谷家の主家の、ずっと奥にあり、四方を他の部屋で包まれており、それに襖が閉めきってあるためか、昼だというのに、黄昏《たそがれ》のように暗かった。部屋の中央《まんなか》の辺りに一基の朱塗りの行燈《あんどん》が置いてあって、熟《う》んだ巴旦杏《はたんきょう》のような色をした燈の光が、畳三枚ぐらいの間を照らしていた。
その光の輪の中に、黒漆ぬりの馬盥《ばたらい》が、水を張って据えてあり、その向こう側に、髪を垂髪《おすべらかし》にし、白布で襷をかけた女が坐っていた。そうして脇下まで捲れた袖から、ヌラヌラと白い腕を現わし、馬盥で、生首を洗っていた。生首はそれ一つだけではなく、その女の左右に、十個《とお》ばかりも並んでいた。いずれも男の首で、眼を閉じ、口を結んでいたが、年齢《とし》からいえば、七八十歳のもあれば、二三十歳、四五十歳、十五六歳のもあった。首たちは、燈火《あかり》の輪の中に、一列に、密着して並んでいた。その様子が、まるで、お互い生存《いき》ていた頃のことを、回想し合っているかのようであった。光の当たり加減からであろうが、十七八歳の武士の首は、鼻の脇からかけて口の横まで、濃い陰影《かげ》を、筋のように附けていたので、泣いてでもいるように見えた。
女は、菊弥が入って来て、「あッ」と叫んで、ベッタリ坐っても、しばらくは顔を上げずに、額へパッと髪をかけたまま、馬盥に俯向き、左の手で生首の髻《
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