狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
侍は其方へ眼をやった。
と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
寒い季節の水泳! まあこれは[#「これは」に傍点]可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
侍は感心してじっと見入った。
ところが老人の泳ぎ方であるが、洵《まこと》に奇態なものであった。
水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。
侍はホトホト感心した。
「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」
だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、[#「、」は底本では「。」]不思議な泳ぎ方をしたからであった。
老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。
二
これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術《なんそうりゅうけんじゅつ》第《だい》一|巻《まき》九|重天《ちょうてん》の左行篇《さぎょうへん》だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無
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