ある。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
 正雪、腕を組んで考え込んだ。
 そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
 で、正雪は玄関を上った。
 通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
 どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
 気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
 正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
 それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌《こんだ》の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。
 矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
 その瞬間に正雪は、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ出された。
 飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
 違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々《るる》として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。
 床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり[#「しっ
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