柳営秘録かつえ蔵
国枝史郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午後《ひるさがり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|公孫樹《いちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ちん[#「ちん」に傍点]と穏しく
−−


 天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後《ひるさがり》、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂《せむし》で片眼で無類の醜男《ぶおとこ》、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳《はたち》なのであった。
「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちん[#「ちん」に傍点]と穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。……まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」
「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。
「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を演《や》るにも演り可《い》いってものだ。どうだい親方そのついでに一両がとこ貸してくれないか。アッハハハこいつア嘘だ! さて」と言うと鬼小僧は、手拭いを二三度打ち振ったが、
「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」
 云いながらヤンワリ結んだが、
「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」
「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。
「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」
 グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。
「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。……ここに大きな盃洗《どんぶり》がんある。盃洗の中へ水を注《つ》ぐ」
 こう云いながら鬼小僧は、足下《あしもと》に置いてあった盃洗を取り上げ、グイと左手で差し出した。それからこれも足元にあった、欠土瓶《かけどびん》をヒョイと取り上げたが、ドクドクと水を注ぎ込んだ。
「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」
 懐中《ふところ》から紙包みを取り出した。
「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」
「ああ俺《おい》らが嘗めてやろう」
 一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、
「やあ本当だ、甘《あめ》え砂糖だ」
「べらぼうめエ、あたりめエよ。辛《かれ》え砂糖ってあるものか。……そこで砂糖を水へ入れる。と、出来るのは砂糖水。これじゃア一向くだらねえ。手品でも何でもありゃアしねえ。そこでグッと趣向を変え、素晴しい物を作ってみせる」
 パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。
 ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。
 盃洗の水をザンブリと覆《あ》け、鬼小僧はひどく上機嫌、ニヤリニヤリと笑ったが、
「さあ今度は何にしよう? うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」
 キッと空を見上げたが、頭上には裸体《はだか》の大|公孫樹《いちょう》が、枝を参差《しんし》と差し出していた。
「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」
 こう云って招くような手附をした。
 と、公孫樹の頂上《てっぺん》から、何やらスーッと下《お》りて来た。それは小さな鳥籠であった。誰が鳥籠を下ろしたんだろう? それでは高い公孫樹の梢に、鬼小僧の仲間でもいるのだろうか? それに洵《まこと》に不思議なのは鳥籠を支えている縄がない。鳥籠は宙にういていた。これには見物も吃驚《びっくり》した。ワーッと拍手喝采が起こった。鳥籠はスルスルと下りて来た。しかし下り切りはしなかった。地上から大方一丈の宙で急に鳥籠は止まってしまった。
「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。
「どうしたんだい、驚いたなあ」
 呟《つぶや》いた途端に見物の中から、
「小僧、取れるなら取ってみろ!」
 嘲るような声がした。



 鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。鶴髪《かくはつ》白髯《はくぜん》長身《ちょうしん》痩躯《そうく》、眼に不思議な光を宿し、唇に苦笑を漂わせた、神々しくもあれば凄くもある、一人の老人が立っていた。地に突いたは自然木の杖、その上へ両手を重ねて載《の》せ、その甲の上へ頤をもたせ[#「もたせ」に傍点]、及び腰をした様子には、一種の気高さと鬼気とがあった。
「小僧」と老人は教えるように云った。
「手品などとは勿体無い。それは『形学《けいがく》』というべきものだ。どこで学んだか知らないが、ある程度までは達している。しかしまだまだ至境には遠い。それに大道で商うとは、若いとはいえ不埒千万、しかし食うための商売《あきない》とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」
 老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我|卜居《ぼっきょ》す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の住居《すまい》は雲州の庭だ」
 老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
 腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて了《しま》やアがった。全体どういう爺《おじい》だろう? 謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭? 雲州の庭? どうも見当がつかねえなあ。……」
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に茫然《ぼんやり》しているじゃアないか」
 背後《うしろ》で優しく呼ぶ声がした。
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
 こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
 お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した女形《おやま》のようだ。
 笠森お仙、公孫樹《いちょうのき》のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている一葉《いちは》茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。
 同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは仲宜《なかよ》しであった。
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「妾《わたし》も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。養母《おっか》さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨までしゃぶろう[#「しゃぶろう」に傍点]っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」
「お養母《かあ》さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
 お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
 ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
 日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
 と、鬼小僧は突然云った。
「解《わか》った! 箆棒《べらぼう》! 何のことだ!」



「解った! 箆棒! 何のことだ!」
 こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。
 浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。尾張《おわり》殿、肥後《ひご》殿、仙台殿、一ッ橋殿、脇坂殿、大頭《おおあたま》ばかりが並んでいた。その裏門が海に向いた、わけても宏壮な一宇の屋敷の外廻りの土塀まで来た時であった。その土塀へ手を掛けると、鬼小僧はヒラリと飛び上った。土塀の頂上《てっぺん》で腹這いになり、家内《やうち》の様子を窺ったが、樹木森々たる奥庭には、燈籠の燈《ひ》がともっているばかり、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。
「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の態《さま》、そうかと思うと谷川が流れ、向うに石橋こちらに丸木橋、更にある所には亭《ちん》があり、寂と豪華、自然と人工、それの極致を尽くした所の庭園は眼前に展開されていたが、これぞと狙いを付けて来た、目的の物はみえなかった。
「おかしいなあ?」と呟《つぶや》いたが、鬼小僧は失望しなかった。そろそろと爪先で歩き出した。と一棟の茶室《みずや》があった。その前を通って先へと進んだ。
「これ小僧」と呼ぶ声がした。
「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」
 茶室の中から聞こえてきた。
 鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも周章《あわて》はしなかった。足を払うと縁へ上った。と、雨戸が内から開いた。そこで鬼小僧は身を細め、障子をあけて中へ入った。しかし老人は居なかった。
「はてな?」と小首を傾げた時、正面の壁が左右へあいた。
「ここだここだ」と云う声がした。
「これじゃアまるで化物屋敷だ」
 またも度胆を抜かれたが、そこは大胆の鬼小僧、かまわず中に入って行った。地下へ下りる階段があった。それを下へ下りた。畳数にして五十畳、広い部屋が作られてあった。しかも日本流の部屋ではない。阿蘭陀《オランダ》風の洋室であった。書棚に積まれた万巻の書、巨大な卓《テーブル》のその上には、精巧な地球儀が置いてあった。椅子の一つに腰かけているのが、例の鶴髪の老人であった。
 ここに至って鬼小僧は、完全に度胆を抜かれてしまった。で、ベタベタと床の上に坐った。その床には青と黄との、浮模様|絨氈《じゅうたん》が敷き詰められてあった。昼のように煌々と明るいのは、ギヤマン細工の花ランプが、天井から下っているからであった。
「雲州の庭、よく解《わか》ったな」
 老人はこう云うと微笑した。手には洋書を持っていた。
「へえ、随分考えました。……雲州様なら松江侯、すなわち松平|出雲守《いずものかみ》様、出雲守様ときたひには、不昧《ふまい》様以来の風流のお家、その奥庭の結構は名高いものでございます。……雲州の庭というからには、そのお庭に相違ないと、こう目星を付けましたので」
 鬼小僧は正直にこう云った。
「ところで俺を何者と思う?」
「さあそいつだ、見当が付かねえ」
「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の扁額《へんがく》であった。墨痕淋漓匂うばかりに「紙鳶堂《しえんどう》」と三字書かれてあった。
「形学《けいがく》を学んだお前のことだ、紙鳶堂の号ぐらい知っているだろう」
「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが?」
「うん、表て向きはそうなっている。が、俺は生きている。雲州公に隠まわれてな。つまり俺の『形学』を、大変惜しんで下されたのだ。俺は本年百十歳だ」
「それじゃア本当にご老人には、平賀先生でございますか?」
「紙鳶堂平賀源内だ」
「へえ」とばかりに鬼小僧は床へ額をすり[#「すり」に傍点]付けてしまった。



 その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧……どこへ行ったとも解《わか》らなかった。江戸の人達は落胆《がっかり》した。観音様への帰り路、美しいお杉の纖手から、茶を
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング