したとみえ、ゆたかに海上へ漂った。と小船《はしけ》が無数に下ろされ、それが一斉に岸へ向かって、さながら矢のように漕ぎ寄せられた。と、ヒラヒラと人が下りた。すると小船《はしけ》は帰って行った。と、またその船が岸へ漕がれ、ヒラヒラと人が岸へ飛んだ。これが数回繰り返され、一百人あまりの人数が、海から岸へ陸揚げされた。森田屋の部下の海賊どもであった。
 賊どもは一団に固まった。真っ先に立った人影は、秋山要介正勝で、櫂《かい》で造った獲物を提《ひっさ》げ、一巡一同を見廻したが、重々しい口調でいい出した。
「森田屋は船へ残すことにした。海路を断たれると危険だからな。……さて市之丞前へ出ませい」声に連れて一つの人影が、ツト前へ現われた。「赤格子九郎右衛門はそちにとり、不倶戴天《ふぐたいてん》の父の仇だ。で五十人の部下を率い、東の門から乱入し、赤格子一人を目掛けるよう。さて次に郡上殿!」呼ばれて一つの人影は、立ったままで一礼した。「貴殿には尊いお方から、密書を預かっておられる由、十人の部下をお貸し致す。それに守られてご活動なされ。行動は一切ご自由でござる。次に小頭小町の金太!」「へい」というと一つの人影が、群を離れて進み出た。「お前は二十人の部下を連れて、西の門から乱入しろ。そうして出邸へ火を掛けろ。さて、最後にこの俺だが、残りの二十人を引率し、表門から向かうことにする。一世一代の赤格子|征《ぜ》めだ、命限り働くがいい」
 全軍|粛々《しゅくしゅく》と動き出した。
 玻璃窓の郡上平八としては、ここが名誉と不名誉との、別れ際《ぎわ》ともいうべきであった。赤格子が殺されてしまったら、せっかくの密書が役に立たぬ。これはどうでも戦いの前に、是非赤格子に渡さなければならない。で、つと群から駈け抜けると、付けられた十人の部下も連れず、大手の門へ走っていった。自由行動を許されていたので、誰も咎める者はない。来て見れば刎ね橋が下ろされてあった。それを渡って表門にかかり、試みに押すとギーと開いた。さて構内へはいって見ると、まことに異様な建築法であった。一渡り素早く見廻したが、中央に立っている建物へ、目を付けざるを得なかった。で、彼は足音を忍ばせ、空地を横切って本邸へ走った。手に連れて扉が開き、長い廊下が眼の前を、左右にズッと延びていた。彼はちょっとの間思案したが、つと廊下へ踏み入った。そうしてすぐに左へ廻った。
 この時和泉屋次郎吉は、反対側の廊下の上に、考え込んで立っていたが、誰やら人の来たらしい、軽い足音が聞こえて来たので、ハッとして耳を引っ立てた。
「いずれ屋敷の者だろう。逢ってもみたし逢いたくなし。少し様子を探ってやれ」
 で彼は西へ廻った。
 この本邸の建て方は、中央に九郎右衛門の部屋があり、その部屋の四面を囲繞《いにょう》して、廊下がグルリと作られてあり、その廊下の隅々に、四つの部屋が出来ている。
 で、次郎吉の立っていた所は、その北側の廊下であって、それを今西の方へ歩き出した。また平八の立っていた所は、南側の廊下であったが、それを今東へ歩き出した。
 九郎右衛門の居間たるや、四方厚い石壁で、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》の四隅に戸口はあったが、石壁の色と紛らわしく、発見することは不可能であった。
 玻璃窓の平八は足を止めた。それは自分の反対側で、誰かこっそり歩いているとみえ、幽かな足音がしたからであった。しかしもちろん足音の主が、鼓賊だなどとは夢にも思わず、邸内の者だろうと想像した。

    追いつ追われつ鼓賊と玻璃窓

「九郎右衛門には逢わなければならない。その他の者には逢いたくない。深夜に他家へ忍び込み、ウソウソ歩いているところを、とっ捉まえられたらそれっきりだ。泥棒といわれても仕方がない。しかし誰かに聞かないことには、九郎右衛門のありかは解らない。歩いているのは誰だろう? 九郎右衛門なら有難いが? いやいや恐らく召使いだろう。とまれ様子をうかがってみよう」そこで彼は歩いて行った。行く手に一つの部屋があった。九郎右衛門の病身の妻、お妙の住んでいた部屋なのであるが、今は誰もいなかった。で、平八はその部屋へ素早くからだを辷《すべ》り込ませ、扉《と》の隙間から廊下の方を息を凝らしてうかがった。こなた鼓賊の次郎吉は、西へ西へと歩を運んだが、かつて丑松の住んでいた、そうして今はガラ空きの、一つの部屋の前まで来た時反対側を歩いていた、忍ぶがような足音が、にわかにピッタリ止まったので、これもピッタリ足を止めた。そうして彼は考えた。
「銀之丞様も銀之丞様だが、俺の真の目的は、この家の巨財を奪うことだ。鼓に答えた億万の巨財! いったいどこにあるのだろう? ポンポンと鼓を調べさえしたら、音色を通して、感じられるのだが、まさかここでは打たれない。眼を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が止《や》んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」
 丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと四辺《あたり》は静かであった。物寂しく人気がない。
 お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。
「さてはこっちの木精《こだま》かな? 奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは木精《こだま》に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」
 首につるした密書箱を、懐中《ふところ》の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。
 和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。
「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は忍術《しのび》の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか俺《おい》らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、白浪《しらなみ》の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン!」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも忍術《しのび》の一秘法、電光のような横歩きであった。
 胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。
「木精《こだま》ではない、木精ではない! やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな? いや待てよ、あの歩き方は?」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋山が、兵を率いて攻めて来る。もし赤格子が殺されたら、俺の使命は無駄になる。碩翁様《せきおうさま》にも合わす顔がない。……さんざ鼓賊に翻弄《ほんろう》され、尚その上に今度の使命まで、無駄にされては活きてはいられぬ。……だが、どうも気になるなあ誰がいったい歩いているのだろう? 俺が歩けば向こうも歩き、俺が止まれば向こうも止まる。俺をからかってでもいるようだ。館の造りもまことに変だ。真ん中に四角な石壁があって、その周囲に廊下があり、廊下の隅々に部屋がある。だが、どれも空っぽだ。いったい四角な石壁は、なんの必要があって出来ているのだろう? 部屋にしては戸口がない。打《ぶ》っても叩いてもビクともしない。……おや、畜生歩き出したかな?」平八はじっと耳を澄まし、向こう側の様子を聞き澄ました。

    丑松短銃で玻璃窓を狙う

 しかし足音はきこえなかった。
「では俺の方から歩いてやれ」丹田《たんでん》の気を胸へ抜き、ほとんど垂直に爪先を立て、これも一種の忍術《しのび》骨法、風を切って一息に、北側の廊下を丑松の部屋まで、電光のように走って行った。やっぱりその部屋も空であった。そうして憎い相手の者も、それに劣らぬ早足をもって、一瞬に位置を変えたとみえ、西側の廊下一帯には、人の姿は見えなかった。
 勃然《ぼつぜん》と平八の胸の中へ、怒りの燃えたのは無理ではなかろう。「よし、こうなれば意地ずくだ。どんなことをしても捉えてみせる!」
 彼は四角の石壁に添い、四筋の廊下を猟犬のように、追い廻してやろうと決心した。
 で、彼はそれをやり出した。風が烈しくぶつかって来た。独楽《こま》のようにぶん廻った。しかも少しも音を立てない。十回あまりも繰り返した。しかし憎むべき嘲弄者《ちょうろうしゃ》を、発見することは出来なかった。やはり相手も彼と同じく、彼と同じ速力で、四筋の廊下を廻ったらしい。そうしていつも反対側に、その位置を占めているらしかった。平八は五十を過ごしていた。いかに鍛えた体とはいえ、疲労せざるを得なかった。彼は今にも仆れそうになった。ハッハッハッハッと呼吸《いき》が逸《はず》んだ。で彼は北側の廊下で、しばらく休むことにした。と、その時形容に絶した、恐ろしい事件が勃発した。しかしそれは彼以外の者には、痛痒を感じない出来事なのであった。ただし平八の身の上にとってはまさしく悪鬼のまどわしであった。ポンポンポン! ……ポンポンポン! と、例の鼓が反対側から、ハッキリ聞こえて来たのであった。最初彼は茫然として、棒のように突っ立った。それから左へよろめいた。それから両手で顔を蔽うと、廊下の上へつっ伏した。彼の全身は顫え出した。彼の理性は転倒し、考えることが出来なくなった。彼は悪夢だと思いたかった。しかし決して悪夢ではない。
「これはいったいどうしたことだ! ……俺は鼓賊に憑かれている。行く所行く所で鼓が鳴る! ここは銚子だ江戸ではない! ……」彼には起きる元気もなかった。
 と、この時、もう一つ、驚くべきことが行われた。石壁へ縞が出来たのであった。それは一筋の光の縞で、だんだん巾が広くなった。そうしてそこから一道の光が、廊下の方へ射し出でた。そうしてそれがうずくまっている、平八の背中を明るくした。と、その石壁の明るみへ、短い棒切れが浮き出した。つづいて人の手が現われた。それから半身が現われた。種子ヶ島を握った一人の子供が――子供のような片輪者が――すなわち赤格子の腹心の、醜い兇悪な丑松が、秘密の扉を窃《ひそ》かにあけて、様子をうかがっているのであった。
 顔を蔽い、背中を向け、うずくまっている平八には、光の縞も丑松も、見て取ることが出来なかった。……種子ヶ島の筒口が、ジリジリと下へ下がって来た。そうして一点にとどまった。その筒口の一間先に、平八の背中が静止していた。今、丑松の母指《おやゆび》が、引き金をゆるゆると締め出した。
 この時和泉屋次郎吉は、南側の廊下に立っていた。彼は愉快でたまらなかった。彼は相手の人間が、平八であるとは知らなかった。彼と同じ稼ぎ人が、彼と同じ目的のもとに、忍び込んでいるものと推量した。そうしてそやつは忍術《しのび》にかけては、名ある奴であろうと想像した。そいつをうまうま翻弄《ほんろう》したことが、彼にはひどく愉快なのであった。

    美しいかな人情の発露

 しかしにわかに静かになったのが、彼には怪訝《けげん》に思われた。「疲労《つか》れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙《す》かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そ
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