いよいよ面白いぞ」そこで例の横歩き、風のように早い歩き方で、グングン東南へ走り下った。吉岡の関所の間道を越え、田中、大文字、東金宿、そこから街道を東北に曲がった。成東、松尾、横芝を経、福岡を過ぎ干潟を過ぎ、東足洗《ひがしあしあらい》から忍阪、飯岡を通って、銚子港、そこの海岸まで来た時には、夕陽が海を色づけていた。と見ると海岸の小高い丘に、岩《いわお》のように厳《いか》めしい、一宇の別荘が立っていたが、そこの石垣にとりわけ大きく、例の十文字が記されてあった。
「ははあ、こいつが魔物だな」そこは商売みち[#「みち」に傍点]によって賢く、次郎吉は鋭い「盗賊眼」で早くもそれと見て取った。あたりを見廻すと人気がなく、波の音ばかりが高く聞こえた。「よし」というと岩の根方に、膝を正して坐ったが、まず風呂敷の包みを解き、取り出したのは少納言の鼓、調べの紐をキュッと締め、肩へかざすとポンと打った。とたんにアッといって飛び上がったのは、思いもよらず鼓の音が、素晴らしく高鳴りをしたからであった。「こんな筈はない。どうしたんだろう?」そこでもう一度坐り直し、ポンポンポンと続け打ってみた。と、その音は依然として、素晴らしい高鳴りをするのであった。「どうもこいつは解せねえなあ」こう次郎吉は呟いたが、そのまま鼓を膝へ置くと、眉をひそめて考えこんだ。「千代田城の大奥へ、一儲けしようと忍び込み、この鼓を調べたとき、ちょうどこんなような音がしたが、名に負う柳営とあるからは、八百万石の大屋台、腹のドン底へ滲み込むような、滅法な音がしようとも、ちっとも驚くにゃあたらねえが、いかに構えが大きいといっても、たかが個人の別荘から、こんな音色が伝わって来るとは、なんとも合点がいかねえなあ」……じっと思案にふけったが「三度が定《じょう》の例えがある。よし、もう一度調べてみよう。それでも音色に変りがなかったら、十万二十万は愚かのこと、百万にもあまる黄金白金《こがねしろがね》が、あの別荘にあるものと、見究めたところで間違いはねえ。いよいよそうなら忍び込み、奪い取って一|釜《かま》起こし、もうその後は足を洗い、あの米八でも側へ引き付け、大尽《だいじん》ぐらし栄耀栄華、ううん、こいつあ途方もねえ、偉い幸運にぶつかるかもしれねえ。犬も歩けば棒というが、鼠小僧が田舎廻りをして、こんなご馳走にありつこうとは、いや夢にも思わなかったなあ。どれ」というと鼓を取り上げ、一調子ポ――ンと打ち込んだ。やっぱり同じ音色であった。
「こいつあいよいよ間違いはねえ。驚いたなあ」と呟いた時、
「オイ、千三屋!」
と呼ぶ声がした。
「え!」と驚いた次郎吉が、グルリ背後《うしろ》を振り返って見ると、一人の武士が岩蔭から、じっとこっちを見詰めていた。
「おっ、あなたは平手様!」ギョッとして次郎吉は叫んだものである。
地下二十尺救助を乞う
「おおやっぱり千三屋か。妙なところで逢ったなあ。これは奇遇だ、いや奇遇だ」こういいながら近寄って来たのは、他ならぬ平手造酒であった。今年の真夏追分宿で、仲よく(?)つきあった頃から見ると、多少やつれてはいたけれど、尚精悍の風貌は、眉宇《びう》のあいだに現われていた。「オイ千三屋」と叱るように、「実に貴様は悪い奴だな。観世の小鼓をなぜ盗んだ」「ああこいつでございますか」次郎吉はテレたように笑ったが、「へい、いかにも追分では、無断拝借をいたしやした。だがその後観世様へ、一旦ご返却いたしましたので」「嘘をいえ、悪い奴だ」造酒は一足詰めよせたが「一旦返した観世の小鼓を、どうしてお前は持っている?」「それには訳がございます」気味が悪いというように、小刻みに後へ退りながら、「実はこうなのでございますよ。一旦お返ししたあとで、是非に頂戴いたしたいと、お願いしたのでございますな。すると観世様はこうおっしゃいました。盗まれてみれば不浄の品、もう家宝にすることはできぬ。往来へ捨てるから拾うがよいと。……で往来へお捨てなされたのを、わっちが急いで拾ったので。嘘も偽《いつわ》りもございません。ほんとうのことでございますよ」次郎吉は額の汗を拭いた。
造酒は迂散《うさん》だというように、黙って話を聞いていたが、不承不承に頷いた。
「貴様も相当の悪党らしい。問い詰められた苦しまぎれに、ちょっと遁《の》がれをいうような、そんなコソコソでもなさそうだ。それに観世の精神なら、そんな態度にも出るかもしれない。お前のいいぶんを信じることにしよう」「へえ、ありがとう存じます。ヤレヤレこれで寿命が延びた、抜き打ちのただ一刀、いまにバッサリやられるかと、どんなにハラハラしたことか。……それはそうと平手様、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な土地に、おいでなさるのでございますな?」……聞かれて造酒は気まずそうに、寂しい笑いをうかべたが、「銚子港ならまだ結構だ。もっと辺鄙な笹川にいるのだ」「おやおやさようでございますか」「おれも江戸をしくじってな。道場の方も破門され、やむを得ずわずかの縁故を手頼《たよ》り、笹川の侠客繁蔵方に、態のいい居候《いそうろう》、子分どもに剣術を教え、その日をくらしているやつさ」「そいつはどうもお気の毒ですなあ。……それで今日はこの銚子に、何かご用でもございまして?」「うん」といったが声を落とし、「実は騒動が起こりそうなのだ」「へえ、なんでございますな?」「飯岡の侠客助五郎が、笹川繁蔵を眼の敵《かたき》にして、だんだんこれまでセリ合って来たが、いよいよ爆発しそうなのさ。そこでおれは今朝早く、笹川を立って飯岡へ行き、それとなく様子を探って見たが、残念ながら喧嘩となれば、笹川方は七分の負けだ。なんといっても助五郎は、老巧の上に子分も多く、それにご用を聞いている。こいつは二足の草鞋といって、博徒仲間では軽蔑するが、いざといえば役に立つからな。……喧嘩は負けだと知ってみれば、気がむすぼれて面白くない。そこで大海の波でも見ようと、この銚子へやって来たのさ。それに銚子ははじめてだからな。……おや、あれはなんだろう? おかしなものが流れ寄ったぞ」
つと渚《なぎさ》へ下りて行き、泡立つ潮へ手を入れると、グイと何かひき出した。それは細身の脇差しの鞘で、渋い蝋色に塗られていた。
「はてな?」と造酒は首をかしげたが、
「この鞘には見覚えがある」……で、鞘口へ眼をやった。と粘土が詰められてあった。粘土を取って逆に握り、ヒューッとひとつ振ってみた。すると、中から落ちて来たのは、小さく畳んだ紙であった。「これは不思議」と呟きながら、紙をひらくと血で書いたらしい、一行の文字が現われた。読み下した造酒の顔色が、サッと変ったのはどうしたのであろう? これは驚くのが当然であった。紙には次のように書かれてあった。
「主知らずの別荘。地下二十尺。救助を乞う。観世銀之丞」
差し覗いていた次郎吉も、これを見ると眼をひそめた。
「こいつあ平手さん大変だ。文があんまり短くて、はっきりしたことは解らねえが、なんでも観世銀之丞さんは、悪い奴らにとっ掴まり、主知らずとかいう別荘へ、押し込められているのです。地下二十尺というからには、恐ろしい地下室に違えねえ。救助を乞うと血で書いてあらあ。まごまごしちゃいられねえ」「だが、どうして助け出す?」造酒は呻くように訊きかえした。「主知らずの別荘だって、どこにあるのかわからないではないか」「ナーニ、そんなことは訳はねえ。刀の鞘の鞘口へ、粘土が詰められてありましたね。そいつが崩れていなかったのは、永く海にいなかった証拠だ。いずれ手近のこの辺に、別荘はあるに違えねえ。銚子からはじめて付近の港を、これからズッと一巡し、人に訊いたら解りましょうよ」「いかさまこれはもっともだ。では一緒に尋ねようか」「いうにゃ及ぶだ。参りましょう!」そこで二人は手をたずさえ、町の方へ走って行った。
造酒と次郎吉別荘へ忍ぶ
次郎吉とそうして平手造酒とが「主知らずの別荘」のあり場所について、最初に尋ねた家といえば、好運にもお品の家であった。そこで二人は一切を聞いた。銀之丞が銚子へ来たことも、お品の家に泊まっていたことも、主知らずの別荘へ行ったきり、帰って来なかったということも。
「だからきっと銀之丞様は、いまでもあそこの『主知らずの別荘』に、おいでなさるのでございましょうよ」こういってお品は寂しそうにした。そこで二人はあすともいわず、今夜すぐに乗り込んで行って、造酒としては銀之丞を救い、次郎吉としては莫大もない、別荘の中の財宝を、盗み取ろうと決心した。
別荘へ二人が忍び込んだのは、その夜の十二時近くであった。不思議なことに別荘には、何の防備もしてなかった。刎《は》ね橋もちゃんと懸かっていたし、四方の門にも鍵がなかった。で、二人はなんの苦もなく、広い構内へ入ることが出来た。中心に一宇の館があり、その四方から廊下が出ていて、廊下の外れに一つずつ、四つの出邸のあるという、不思議な屋敷の建て方には、二人ながら驚いた。しかし、それよりもっと驚いたのは、その屋敷内が整然と、掃除が行き届いているにも似て、闃寂《げきじゃく》[#「闃寂」は底本では「※[#「闃」の「目」に代えて「自」]寂」]と人気のないことで、あたかも無住の寺のようであった。
しかしじっと耳を澄ますと、金《かつ》と金と触れ合う音、そうかと思うと岩にぶつかる、大濤《おおなみ》のような物音が、ある時は地の下から、またある時は空の上から、幽《かす》かではあったけれど聞こえて来た。
「平手さん、どうも変ですね」次郎吉は耳もとで囁いた。「気味が悪いじゃありませんか」
「うむ」といったが平手造酒は、じっと出邸へ目をつけた。「とにかくあれは出邸らしい。ひとつあそこから探るとしよう」
土塀の内側に繁っている、杉や檜の林の中に、二人は隠れていたのであったが、こういうと造酒は歩き出した。
「まあまあちょっとお待ちなすって。そう簡単にゃいきませんよ。なにしろここは敵地ですからね。いかさまあいつが出邸らしい。と、するといっそうあぶねえものだ。人がいるならああいう所にいまさあ。つかまえられたらどうします」「いずれ人はいるだろうさ。これほどの大きな屋敷の中に、人のいない筈はない。が、おれは大丈夫だ。五人十人かかって来たところで、粟田口《あわたぐち》がものをいう。斬って捨てるに手間ひまはいらぬ」「それはマアそうでございましょうがね。君子は危うきに近寄らず、いっそそれより本邸の方から、さがしてみようじゃございませんか」「いやいやそんな余裕はない。観世から来た鞘手紙、危険迫るとあったではないか。一刻の間も争うのだ」「なるほどこいつあもっともだ。だがあっしは気が進まねえ。うん、そうだ、こうするがいい。あなたは出邸をお探しなせえ。あっしは本邸を探しやしょう」「おお、こいつはいい考えだ。それではそういうことにしよう」
ここで二人は左右へ別れ、次郎吉は本邸へ進んで行った。木立ちを出ると小広い空地で、戦いよさそうに思われた。左手を見れば長廊下で、出邸の一つに通じていた。右手を見ても長廊下で、また別の出邸に通じていた。空地を突っ切ると本邸で、戸にさわると戸が開いた。と眼の前に長い廊下が、一筋左右に延びていた。耳を澄ましたが人気はなく、ただ薄赤い燈火《ともしび》が、どこからともなくさしていた。「ともしがさしているからには、どこかに人がいなけりゃあならねえ」で次郎吉はその廊下の、右手の方へと忍んで行った。すぐに一つの部屋の前に出た。これぞお艶の部屋なのであったが、今夜は誰もいなかった。で次郎吉は引き返そうとした。
しかし何んとなく未練があった、で、しばらく立っていた。
森田屋一味の赤格子|征《ぜ》め
しかるにこの頃暗い暗い、銚子の海の一所に数隻の親船が現われた。森田屋一味の海賊船で、赤格子ぜめに来たのであった。すなわち彼らの根拠地から、用意万端ととのえて、総勢すぐって二百人、有司の鋭い警戒網をくぐり、ここまでやって来たのであった。……親船は岸へ近づいて来た。やがて碇《いかり》を下ろ
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