用心であった。握った丸太はいつも上段で、じっと敵を睥睨《へいげい》した。静かなること水の如く、動かざること山の如しといおうか、漣《さざなみ》ほどの微動もない。と、ゆっくり幾呼吸、ジリジリ逼る賊の群を一間あまり引きつけて置いて、「カッ」と一|声《せい》喉的破裂《こうてきはれつ》、もうその時には彼の体は敵勢の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音! 丸太が斜めに振られたのであった。生死は知らずバタバタと、三人あまり倒れたらしい。「エイ」という引き気合い! まことに軟らかに掛けられた時には、彼のからだは以前の場所に、以前と同じに立っていた。と、ワッと閧《とき》を上げ、バラバラと逃げる賊の後を、ただ冷然と見るばかり、無謀に追っかけて行こうとはしない。帆柱を背に不動の姿勢、そうして獲物は頭上高く、やや斜めにかざされていた。と、また懲りずにムラムラと、海賊どもが集まって来た。それを充分引きつけておいて、ふたたび喉的破裂の音、「カッ」とばかりに浴びせかけた時には、どこをどのようにいつ飛んだものか、長身|痩躯《そうく》の彼の体は、賊勢の只中に飛び込んでいた。またもやピューッという風を切る音、同時にバタバタと倒れる音、「エイ」と軟らかい引き呼吸、もうその時には彼の体は、帆柱の下に佇んでいた。それからゆるやかな幾呼吸、微塵|労疲《つか》れた気勢《けはい》もない。で、また賊はムラムラと散ったが、それでも逃げようとしないのは、不思議なほどの度胸であった。彼らは口々に警《いまし》め合った。
「手強《てごわ》いぞよ手強いぞよ!」「用心をしろよ用心をしろよ!」

    秋山要介と森田屋清蔵

 そこで遠巻きにジリジリと、またも賊どもは取り詰めて来た。しかし武士は動かない。ただ凝然《じっ》と見詰めていた。口もとの辺にはいつの間にか、憐れみの微笑さえ浮かんでいた。
 と、また同じことが繰り返された。賊どもがまたも押し寄せて来た。忽ち掛けられた喉的破音《こうてきはおん》。同時に武士の長身は、敵の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音、続いて賊どもの倒れる音、そうして軟らかい気合いと共に、武士の姿は帆柱のもとに、端然冷然と立っていた。
 判で押したように規則正しい、その凄烈の斬り込みは、なんと形容をしていいか、言葉に尽くせないものがあった。
 帆綱の蔭に身をひそめこの有様を眺めていた、玻璃窓の郡上[#「郡上」は底本では「那上」]平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。
「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう? 当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の逸見《へんみ》多四郎、それから、それからもう一人! うん、そうだ、あの人だ!」
 その時、ボ――ッという竹法螺《たけぼら》の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に颯《さっ》と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう?」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の船首《へさき》にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。
「あっ、飛び道具だ! こいつはいけない!」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア! 飛び道具だア! お武家あぶねえ! あぶねえあぶねえ!」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。
 風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺|寂《せき》として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が大音《だいおん》に呼ばわった。
「おお貴様は、森田屋じゃねえか!」
「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか!」
「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ!」
「あっいけねえ、そいつあ大変だ! わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ! 取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と軋《きし》る艫櫂《ろかい》の音、見る見る賊船は位置を変え、八幡丸の船腹へ、ピッタリ船腹を食っつけてしまった。
 この二人の問答を聞き、はっと思ったのは平八で、剣技神妙の侍が、秋山要介であろうとは、たった今し方感づいたところで、これには別に驚かなかったが、海賊船の頭領が、森田屋清蔵であろうとは、夢にも思わなかったところであった。
 天保六花撰のその中でも、森田屋清蔵は宗俊に次いで、いい方の位置を占めていた。しかも人物からいう時は、どうしてどうして宗俊など、足もとへも寄りつけないえらもの[#「えらもの」に傍点]なのであった。気宇《きう》の広濶希望の雄大、任侠的の精神など、日本海賊史のその中でも、三役格といわなければならない。産まれは駿州江尻在、相当立派な網持ちの伜で、その地方での若旦那であり、それが海賊になったのには、いうにいわれぬ事情があったらしい。

    海賊船は梵字丸《ぼんじまる》

 郡上平八が隠居せず、立派な与力であった時分、その豪快な性質を愛し、二、三度|目零《めこぼ》しをしたことがあった。で清蔵からいう時は、まさしく平八は恩人なのであり、また平八からいう時は、恩を施してやった人間なのであった。
 しかるに清蔵はここ七、八年、全く消息をくらましていた。もう死んだというものもあり、南洋へいったというものもあり、日本近海からは彼の姿は、文字どおり消えてなくなっていた。で、今度の海賊沙汰についても、彼の噂はのぼらなかった。したがって平八の心頭へも、清蔵の名は浮かんで来なかった。しかるにいよいよぶつかってみれば、その海賊は森田屋なのであった。
「俺はまたもや目違いをした」
 思うにつけても平八は、憮然たらざるを得なかった。
 この時|船縁《ふなべり》を飛び越えて、森田屋清蔵がやって来た。と見て取った平八は、つと前へ進み出たが、
「おお森田屋、久しぶりだな!」
「え?」といって眼を見張ったが、
「やあ、あなたは郡上の旦那!」
「ナニ、郡上?」といいながら、ツカツカやって来たのは武士であったが、
「うむ、それでは世に名高い、玻璃窓の郡上平八老かな」
「そうして、あなたは秋山殿で」「いかにも拙者は秋山要介、名探索とは思っていたが、郡上老とは知らなかった」「奇遇でござるな。奇遇でござる」二人はすっかりうちとけた。
「ヤイヤイ野郎どもトンデモない奴だ! 秋山先生と郡上の旦那へ、手向かいするとは不量見、あやまれあやまれ、大馬鹿野郎!」森田屋清蔵は手下の者どもを、睨み廻しながら怒鳴りつけた。
「ワーッ、こいつあやりきれねえ。強いと思ったが強い筈だ。だが、お頭は水臭いや。掛かれといったから掛かったんで。ぶん撲られたそのあげく、あやまるなんてコケな話だ」
「みんな手前《てめえ》達がトンマだからさ。文句をいわずとあやまれあやまれ」――で、賊どもがあやまるという、滑稽な幕がひらかれた。

 森田屋清蔵の海賊船は梵字丸《ぼんじまる》と呼ばれていた。その梵字丸の胴の間に、苦笑いをして坐っているのは、他でもない平八で、それと向かい合って坐っているのは、すなわち森田屋清蔵であった。四十五、六の立派な仁態《じんてい》、デップリと肥えた赧ら顔、しかもみなりは縞物ずくめで、どこから見ても海賊とは見えず、まずは大商店《おおどこ》の旦那である。側《そば》に大刀をひきつけてはいるが、それさえ一向そぐわない。
 掠奪を終えた梵字丸は、しんしんと駛《はし》っているらしい。轟々という浪の音、キ――キ――という帆鳴りの音、板と板とがぶつかり合う、軋り音さえ聞こえて来た。
「旦那がおいでと知っていたら、けっして掛かるんじゃなかったのに、とんだドジをふみやした。どうぞマアごかんべんを願います」森田屋清蔵は手を揉んだが、「それに致してもそのおみなりで、どちらへお出かけでございましたな。」
「うん、これか」といいながら、平八は自分を見廻したが「どうだ森田屋、似合うかな」「そっくり棟梁でございますよ」「アッハハハ、それは有難い。実はな、森田屋、この風で、海賊を釣ろうとしたやつさ」意味ありそうにきっといった。
「ええ、海賊でございますって? おお、それじゃわっちたちを?」さすがにその眼がギラリと光った。
「うん、まずそうだ。そうともいえる。がまたそうでないともいえる」謎めいたことをいいながら、一膝グイと進めたが、「森田屋、正直に話してくれ。船を造っちゃいないかな?」「ええ、船でございますって?」森田屋はあっけにとられたらしく「それはなんのことでございますな?」「ご禁制の船だよ。ご禁制のな」「へえ、それじゃ千石船でも?」「どうだ、造っちゃいないかな?」
「とんでもないことでございますよ」森田屋清蔵は否定した。
「ふうむ、そうか、造っちゃいないのだな。……いやそれを聞いて安心した。それじゃやっぱり他にあるのだ。……まるまる目違いでもなかったらしい」どうやら安心をしたらしい。

    莫大もない赤格子の財産

 森田屋清蔵には平八の言葉が、どういう意味なのか解らなかった。で、ちょっとの間だまっていた。
 が、やがて意味がわかると、
「ええええ、お目違いじゃございませんとも」急に森田屋は乗り出して来た。
「ご禁制の二千石船を、こしらえている者がありますので」
「それをお前は知ってるのか?」平八は思わず乗り出した。
「知ってる段じゃございません。私《わっち》らはそいつらと張り合ってるので」「誰だな? そいつは? え、誰だな?」「赤格子九郎右衛門でございますよ」
 これを聞くと平八は、しばらく森田屋を見詰めていたが、「うん、それでは赤格子は、日本の土地にいるのだな」「ハイ、いる段じゃございません。赤格子本人がやって来たのは、今年の秋のはじめですが、手下の奴らはずっと前から、日本へ入りこんでいたのですな。そうして連絡を取っていたので」「で、今はどこにいるのだ?」「へい、銚子におりますので」「ううむ、そうか、銚子にな……そこで大船《おおぶね》を造っているのだな? ……なんのために造っているのだろう?」「莫大もない財産を、持ち運ぶためでございますよ」森田屋は居住居を正したが、「実はこうなのでございます。十数年前大坂表で、赤格子九郎右衛門一味の者が、刑死されたと聞いたとき、そこはいわゆる蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、眉唾《まゆつば》ものだと思いました。はたしてそれから探ってみると、刑死どころかお上の手で、丁寧に船で送られて、南洋へ渡ったじゃございませんか。そこでわたしたちは考えたものです。彼奴《きゃつ》が永年密貿易によって、集めた財産は莫大なものだが、どこに隠してあるだろうとね。南洋へ移した形跡はない。ではどうでも日本のうちにある。ソレ探せというところから、随分手を分けてさがしましたが、ねっから目っからないではございませんか。そうこうしているうち年が経ち、ある事情でこのわたしは、海賊の足を洗いました。……」
「ううむ、そうか、それじゃやっぱり、お前は海から足を洗い、素人《しろと》になっていたのだな」
 平八はうなずいて言葉を※[#「插」のつくり縦棒を下に突き抜ける、第4水準2−13−28]んだ。「で、どこに住んでいたな?」「へい、江戸におりました」「ナニ江戸に? 江戸はどこに?」「日本橋は人形
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