《つづみ》の音が聞こえて来た。
聞き覚えのある音であった。追分で聞いた鼓であった。江戸の能役者観世銀之丞が、追分一杯を驚かせて、時々調べた鼓の音だ。いいようもない美音の鼓、どうしてそれが忘られよう。
しかし打ち手は異うらしい。正調でもなければ乱曲でもない。それは素人の打ち方であった。
しかも深夜の静寂を貫き、一筋水のように鳴り渡った。
誰が調べているのだろう? 何んのために調べているのだろう? それも厳冬の雪の戸外で!
ポン、ポン、ポン!
ポン、ポン、ポン!
一音、一音が一つ一つ、冬夜の空間へ印を押すように、鮮やかにクッキリと抜けて響いた。
と、鼓は鳴り止んだ。
二人はホーッと溜息をした。
鼓の鳴り止んだその後は、鳴る前よりも静かになった。鳴る前よりも寂しくなった。
そうして凄くさえ思われた。
二人はビッショリ汗をかいていた。
その凄さ、その寂しさ、その静かさを掻き乱し、「泥棒!」という声のひびいたのは、それから間もなくのことであった。
戸のあく物音、走り廻る足音。「こっちだ」「あっちだ」「逃げた逃げた」詈《ののし》る声々の湧き上がったのも、それから間もなくのことであった。
「そうか」
と浪人ははじめていった。「噂に高い鼓賊であったか」
「お気の毒に、一閑斎様は、能面でも取られたのでございましょう」
「ふん、それもいいだろう。金持ちの馬鹿道楽、あらいざらい盗まれるがいい」
賊は首尾よく逃げたらしい。
やがて人声もしずまった。
また静寂が返って来た。
サラサラと崩れる雪の音。……
「俺は鼓賊が羨《うらや》ましい」
呟《つぶや》くと同時に浪人は、刀を提げて立ち上がった。
「どちらへお越しでございます?」
「俺か」というと浪人は、顔に殺気を漂わせたが、「仕事に行くよ。仕事にな。……今夜は仕事が出来そうだ」
「どうぞお止めくださいまし」
「ふん、何故な? なぜいけない」
「後生をお願いなさいませ」
「うん後生か。それもよかろう。が、どうして食って行くな」
「饑《う》え死のうではございませんか」
「死ぬには早い。俺はイヤだ」
「妾は死にそうでございます。……殺されそうでございます。……自分で縊《くび》れて死のうもしれぬ。……」
「死にたければ死ぬもよかろう」
「あなた!」といって取り縋った。「ひと思いに殺してくださいまし」
「そんなに俺の手で死にたいか」
浪人は鼻でセセラ笑ったが、「そうさ、いずれはそうなろうよ」縋られた手を振り払い、「俺は行くのだ。行かなければならない。鼓賊が俺をそそのかしてくれた。鼓賊が俺を勇気づけてくれた」
「悪行《あくぎょう》はおやめくださいまし」
「どうしてきょうの日を食って行く」
「ハイ、この上は、この妾が……」
女房は袂《たもと》で顔を蔽うた。
「うん、やるつもりか! 美人局《つつもたせ》!」
「ハイ、夜鷹《よたか》でも、惣嫁《そうか》でも」
「そんなことではまだるッこいわい!」
ポンと足で蹴返すと、浪人はツト外へ出た。
……開けられた門口《かどぐち》から舞い込んだのは、風に捲かれた粉雪であった。
女房は門の戸を閉じようともしない。
遠くで追分が聞こえていた。
今の雪風に煽られたのか、炉の埋《うず》み火が燃え上がった。
サラサラと落ちる雪の音。……
「身を苦しめるが罪障消滅。……もうあの人は帰って来まい。……ああまた追分が聞こえて来る」
耳を澄まし眼を据えた。
木立ちに風があたっていた。
どこぞに遠火事でもあると見えて、ひとつばんが鳴っていた。カーンと一つ聞こえて来ては、そのまましんと静まり返り、ややあってまたもカーンと鳴った。
女房はヨロヨロと立ち上がった。
そうして部屋の中を廻り出した。
「お前に習った信濃追分、お前が唄うなら妾も唄う。……『信州追分桝形の茶屋で』……妾が悪うございました。どうぞかんにんしてくださいまし。……『ほろりと泣いたが忘らりょか』……妾が悪うございました。そんなに怨んでくださいますな。……おおおおだんだん近寄って来る!」
振り乱した髪、もつれた裳《もすそ》、肋《あばら》の露出したあお白い胸。……懊悩地獄《おうのうじごく》の亡者であった。
手を泳がせ、裾を蹴り、唄いながら女房は部屋を廻った。
富士甚内とお北との生活。……
鋭利をきわめた五寸釘の手裏剣
「あッあッあッ、あッあッあッ」
「おおよしよし、解った、解った」
「あッあッあッ、あッあッあッ」
「もういいもういい、解った解った。あッハハハハ、びっくりしていやがる。いや驚くのがあたりめえだ。信州追分とは違うからな。名に負う将軍お膝元、八百万石のお城下だからな。土一升金一升、お江戸と来たひにゃア豪勢なものさ。しかも盛り場の両国詰め、どうだいマアマアこの人出は! ペンペンドンドンピーヒャラピーヒャラ、三味線太鼓に笛の音、いや全く景気がいいなあ。ははあ、あいつは女|相撲《ずもう》だな。こっちの小屋掛けは軽業《かるわざ》一座。ええとあれは山雀《やまがら》の芸当、それからこいつは徳蔵手品、いやどうも全盛だなあ」「あッあッあッ。あッあッあッ」「うんよしよし、解った解った、あんまりあッあッといわねえがいい。人様がお笑いなさるじゃねえか。きりょうは結構可愛いのに、ふふんなアんだ唖娘《おしむすめ》か、こういってお笑いなさるからな」「あッあッあッ、あッあッあッ」「あれまたあッあッていやアがる。あッハハハ、どうも仕方がねえ。じゃ勝手にいうがいいさ。いう方がこいつ本当かも知れねえ。追分宿からポッと出の、きょうきのう江戸へ来たんだからな。見る物聞く物といいてえが、お前は唖だから聞くことは出来ねえ。そこで見る物見る物だが、その見る物見る物が、珍しいなあ無理はねえ。うん、精々いうがいい。あッあッあッていうがいい」
こんなことをいいながら、雪解けでぬかる往来を、ノッソリノッソリやって来たのは、甚三の弟の甚内と、その妹のお霜とであった。
ここは両国の盛り場で、興行物もあれば茶屋もあり、武士も通れば町人も通り、そうかと思えばおのぼりさんも通る。色と匂いと音楽と、……雑沓と歓楽との場であって、大概|変梃《へんてこ》な田舎者でも、ここではたいして目立たなかった。
急にお霜が立ち止まり、じっと一点を見詰め出したので、甚内も連れて立ち止まった。
「どうしたどうした、え、お霜、オヤ何か見ているな。ははあ芝居の看板か」
坂東米八の掛け小屋が、旗や幟《のぼり》で飾られて、素晴らしい景気を呼んでいたが、そこに懸けられた、絵看板に、宿場女郎らしい美女の姿が、極彩色《ごくさいしき》で描かれていた。その顔の辺へお霜の眼が、しっかり食いついて離れない。
「奇態だな、見たような顔だ」
呟きながら甚内も、その絵看板へ見入ったが、思わずポンと膝を叩いた。
「ううん、こいつア油屋お北だ!」
兄甚三を殺害した、富士甚内と油屋お北、そのお北に看板の絵が、そっくりそのままだということは、それら二人を敵《かたき》と狙う、甚内兄妹の身にとっては、驚くべき発見といわざるを得ない。
しばらく見詰めていた甚内の眼へ、一抹の殺気の漂ったのは、当然なことといわなければならない。「チェ」と彼は舌打ちをした。「看板にゃ罪はねえ。が、お北にゃ怨みがある。幸か不幸か看板の絵が、こうもお北に似ているからにゃ、こいつうっちゃっちゃ[#「うっちゃっちゃ」に傍点]置けねえなあ」
彼はあたりを見廻した。人通りは繁かったが、彼ら二人を見ている者はない。木戸に番人は坐っているものの、これまた二人などに注意してはいない。
「イラハイイラハイ、今が初まり、名人地獄、鼓賊伝、イラハイイラハイ、今が初まり!」大声でまねいているばかりであった。
「よし」というと甚内は、右手で懐中をソロソロと探った。そうしてその手がひき抜かれた時には、五寸釘が握られていた。ヤッともエイとも掛け声なしに、肩の辺で手首が閃めいたとたん、物をつん裂く音がした。
「態《ざま》ア見やがれ」と捨てゼリフ、甚内はお霜の手を曳くと、橋を渡って姿を消した。
いったい何をしたのだろう? 絵看板を見るがいい。宿場女郎の立ち姿の、その右の眼が突き抜かれていた。それも尋常な抜き方ではない。看板を貫いたその余勢で、掛け小屋の板壁を貫いていた。小柄を投げてもこうはいかない。
甚内の喧嘩の得手
これには当然な理由があった。というのはその師匠が、千葉周作だからであった。
千葉道場へ入門してから、すでに三月経っていた。
初め敵討ちの希望をもって、千葉道場を訪《おと》ずれて、武術修行を懇願するや、周作はすぐに承知した。
「どうやら話の様子によると、富士甚内というその人間、武術鍛練の豪の者のようだ。ところでお前はどうかというに、以前は馬方今は水夫《かこ》、太刀抜く術《すべ》も知らないという。ちとこれは剣呑《けんのん》だな。なかなか武術というものは、二年三年習ったところで、そう名人になれるものではない。しかるに一方敵とは、いつなん時出逢うかもしれぬ。今のお前の有様では返り討ちは必定だ。……そこでお前に訊くことがある。どうだ、喧嘩などしたことがあろうな?」
「へえ」といったが甚内は、びっくりせざるを得なかった。「喧嘩なら今でも致しますので。馬方船頭お乳《ち》の人と、がさつな物の例にある、その馬方なり船頭なりが、私の稼業でございますので。」
「そこで喧嘩は強いかな?」
「へえ」といったが甚内は、いよいよ変な顔をした。「強いつもりでございます」
「得手は何んだな? 喧嘩の得手は?」「へえ、得手とおっしゃいますと?」「突くとか蹴るとか撲るとか、何か得意の手があろう」「ああそのことでございますか。へえ、それならございます。石を投げるのが大得意で」「石を投げる? 石飛礫《いしつぶて》だな。いやこれは面白い。どうだタマにはあたるかな?」
すると甚内は不平顔をしたが、
「へえ、なんでございますかね?」「石飛礫だよ、タマにはあたるかな」「いえ、タマにはあたりません」「ナニあたらないと、それは困ったな」「へえタマにはあたらないので、その代りいつもあたります」「アッハハハ、そういう意味か」
千葉周作は笑い出してしまった。
「ところでどういうところから、そういう変り手を発明したな?」「それには訳がございます。つまり撲られるのがイヤだからで」「それは誰でもイヤだろう」「私は特別イヤなので。撲られると痛うございます」「うん、そういう話だな」「それに撲られると腹が立ちます」「礼をいって笑ってもいられまい」「ところが取っ組んでしまったら、一つや二つは撲られます。それが私にはイヤなので。そこでソリャコソ喧嘩だとなると、二間なり三間なりバラバラと逃げてしまうのでございますな。それから小石を拾うので。そうして投げつけるのでございますよ。へえ、百発百中で、それこそ今日まで、一度だって、外れたことはございません」「おおそうか、それは偉いな」
こういうと周作は立ち上がった。「甚内、ちょっと道場へ来い。……これ誰か外へ行って小石を二、三十拾って来い」
で、道場へやって来た。
「さて、甚内、お前の足もとに、小石が二、三十置いてある。それを俺に投げつけるがいい」
「へえ」といったが甚内は、困ったような顔をした。
「それは先生様いけません」
「なぜな?」と周作は笑いながら訊いた。
「もってえねえ話でございますよ」
「そうさ、一つでも中《あた》ったらな」「では中《あた》らねえとおっしゃるので?」「ひとつお前と約束しよう。お前の投げた石ツブテが、一つでも俺に中ったら、この道場をお前に譲ろう」「こんな立派な道場をね。……そうして先生はどうなされます」「俺か、アッハハハ、そうしたら、武者修行へでも出るとしようさ」「それはお気の毒でございますな」「そうきまったら投げるがいい」
北辰一刀流手裏剣用の武器
「へえ」といったが甚内は、なお何か考えていた。「で、どこを目掛けましょう?」「人間の急所はまず眉間《みけん》だ。
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