。と、全く意外なことが、彼の帰りを待ちかまえていた。
碩翁様からの使者であった。
「はてな?」
と彼は首を傾《かし》げた。
役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい碁敵《ごがたき》であった。
「わざわざのお使者とは不思議だな」
怪しみながら衣服を改め、使者に伴われて出かけて行った。
彼が自宅へ帰ったのは、夜もずっと更けてからであったが、彼はなんとなくニコツイていた。ひどく顔にも活気があった。
彼は家の者へこんなことをいった。
「俺はあすから旅へ出るよ。鼓賊なんか七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]だ。もっともっと大きな仕事が、この俺を待っているのだからな。」
南無幽霊頓証菩提
隅田のほとり、小梅の里。……
十一月の終り頃。弱々しい夕陽が射していた。
竹藪でしずれる[#「しずれる」に傍点]雪の音、近くで聞こえる読経の声、近所に庵室《あんしつ》でもあるらしい。
古ぼけた百姓家。間数といっても二間しかない。一つの部屋に炉が切ってあった。
雪を冠った竹の垣、みすぼらしい浪人のかり住居。……
美男の浪人が炉の前で、内職の楊枝《ようじ》を削っていた。あたりは寂然《しん》と静かであった。
「少し疲労《つか》れた。……眼が痛い。……」
茫然と何かを見詰め出した。
「ああきょうも日が暮れる」
また内職に取りかかった。
しずかであった。
物さびしい。
ポク、ポク、ポク、と、木魚の音。……
夕暮れがヒタヒタと逼って来た。
隣りの部屋に女房がいた。昔はさこそと思われる、今も美しい病妻であった。これも内職の仕立て物――賃仕事にいそしんでいた。
ふと女房は手を止めた。そうして凝然と見詰め出した。あてのないものを見詰めるのであった。……が、またうつむいて針を運んだ。
サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。
浪人は一つ欠伸《あくび》をした。それから内職を片付け出した。
と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の黄昏《たそがれ》であった。
「何をお読みでございます?」
「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、武鑑《ぶかん》だよ」
二人はそれっきり黙ってしまった。
と、浪人が誰にともつかず、
「どこぞへ主取りでもしようかしらん」
しかし女房は返辞をしない。
浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
女房は黙って考えていた。
また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
女房は黙って頷《うなず》いた。
すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。
ここで二人はまた黙った。
と、浪人は卒然といった。
「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。
「妾《わたし》も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。
「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」
女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。
「これ、どこへ行く。どうするのだ」
「灯でもとも[#「とも」に傍点]そうではございませんか」
やがて行燈がともされた。茫《ぼう》っと立つ黄色い灯影《ほかげ》に、煤びた天井が隈取《くまど》られた。
と、女房は仏壇へ行った。
カチカチという切り火の音。……
ここへも燈明が点《とも》された。
「南無幽霊頓証菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》。南無幽霊頓証菩提」
ブルッと浪人は身顫いをした。
「陰気な声だな。俺は嫌いだ」
「南無幽霊頓証菩提」
「その声を聞くと身が縮《すく》む」
「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」
「止めてくれ! 止めてくれ!」
「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」
ザワザワと竹叢《たけむら》の揺れる音。……
どうやら夜風が出たらしい。
悪人同志の夫婦仲
「俺の心は弱くなった。それというのもあの晩からだ。……憎い奴は平手造酒だ!」
なお女房は祈っていた。
ザワザワと竹叢の揺れる音。……
次第に夜が更けて行った。
「天下の金は俺の物だ。斬り取り強盗武士の習い。昔の俺はそうだった。……両国橋の橋詰めで、あいつに河へ追い込まれてからは、何彼《なにか》につけて怖じ気がつき、やることなすこと食い違い……」
なお女房は祈っていた。
やがてそろそろと立ち上がると、おっと[#「おっと」に傍点]の側へ膝をついた。
そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。
「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」
チェッと浪人は舌打ちをした。
「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」
「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」
「あれは……あれはな……空耳だ」
「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」
二人は顔をそむけ合った。
「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」
しかし女房は首を振った。
「あの人の声でございました。何んの妾《わたし》が聞き違いましょう。……」
近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと五位鷺《ごいさぎ》の啼く声がした。
と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、墨堤《つつみ》を走る駕籠であった。
二人はもはや物をいわない。
物をいうことさえ恐れているのだ。
行き詰まった二人の心持ち! しかも生活までも行き詰まっていた。
二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう?
と、浪人はうめくようにいった。
「それにしても俺には解らない。……あんなものが! 馬方が! ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」
「魅入られているのでございます」
「魅入られていると? いかにもそうだ! ああそれも、昔からだ!」
「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」
女は髪を掻きむしろうとした。
「因果な俺達だ。救いはない」
憐れむような声であった。
ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。
「なにか取り込みでもあるらしいな」
「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」
「ふん、それを見せるのか」
「お知り合いのお方をお呼びして」
「勝手なものだ。金持ちは」ギラリと浪人は眼を光らせた。「お北!」と相手の眼を見ながら、
「昔のお前に返る気はないかな?」
女房は凝然と動こうともしない。
「たかが相手はオイボレだ。……お前にぞっこん参っているらしい。……女中が去った、手伝いに来い。……などとお前をよぶではないか……急場のしのぎだ。格好な口だ」
亡魂のうたう追分節
「妾はイヤでございます」
「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」
「昔の妾でございましたら……」
「俺から頼む、笑って見せてやれ」
「妾には出来そうもございません」
「そこを俺が頼むのだ」
「…………」
「ではいよいよ不承知か! そういうお前は薄情者か!」
ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、美男の浪人はいいつづけた。
「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」
浪人はムッツリと腕をくんだ。
「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々《にくにく》しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」
女は肩をすくませた。
「それがあなたに出来ましたら……」
「別れられないとでも思うのか」
「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」
夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。
ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜《ごや》の鐘だ。
「酒はないか?」と浪人はいった。
「なんの酒などございましょう」
きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。
「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」
枕にはついたが眠れない。
犬の遠吠え、夜烏の啼《な》く音《ね》、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。
寂しいなアと思ったとたん、
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西は追分東は関所……
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追分の唄が聞こえて来た。
「あッ」
というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。
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関所越えれば旅の空
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「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
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碓井《うすい》峠の権現さまよ……
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だんだんこっちへ近寄って来た。
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わしがためには守り神
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もう門口へ来たらしい。
浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
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追分、油屋、掛け行燈に
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聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
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浮気ごめんと書いちゃない
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「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。
忽然響き渡る鼓の音
今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
行燈の灯が消えようとした。
その向こう側に物影があった。
「誰!」
といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
空洞《うつろ》のような声であった。
二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓
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