!」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ妾《わたし》にとって、本当の恋人でございます」
「おれのどこが気に入ったな?」嘲笑うような調子であった。
「ただれたような美しさが!」「おれがもしも悪党なら?」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら?」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら?」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら?」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない?」「申し上げた筈でございます」
「お北!」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来|永劫《えいごう》、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな?」「その時こそわたし[#「わたし」に傍点]というものはあなた[#「あなた」に傍点]の物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」
 甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これというさしたる[#「さしたる」に傍点]あてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女に
前へ 次へ
全324ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング