白いので、『名人地獄』とこういうのですよ……わっちはそこで猶予《ゆうよ》なく、木戸を潜って覗いたものです。あッとまたそこで驚ろかされました。何んとその筋が大変物なので。そっくり鼓賊じゃありませんか」
「ナニ鼓賊? 鼓賊がどうした?」平八はグッと眼を据えた。
「へい、そっくり鼓賊なので、いや全く驚きやした」「頼む、筋立てて話してくれ」「順を追って申しましょう。序幕は信州追分宿、そこに旅籠《はたご》がございます。何んとかいったっけ、うん油屋だ。その油屋に江戸の武士が、二人泊まっているのですね。その一人が能役者で、そうして鼓《つづみ》の名人なので。すると隣室に商人がいます。すなわち鼓賊の張本なので」「ふうん、なるほど。それからどうした?」「いろいろ事件があった後で、鼓を盗むのでございますよ。そこで幕が締まります」「ふうん、なるほど、それからどうした?」「で、また幕がひらきます。すると大江戸の夜景色で」「まだるっこいな。それからどうした?」「さあそれからは話し悪《にく》い」松五郎は妙にこだわった。
「どうしたんだ? 何が話しにくい。気取らずにサッサと話してくれ」「ようがす、思い切って話しましょう。つまりなんだ、その鼓賊と、あるやくざな与力あがりとが、競争するのでございますな。ところでいつも与力あがりの方が、カスばかり食わされるのでございますよ。それがまた途方もなく面白いので」「なるほど、そいつは面白そうだな」
こうはいったが平八は、苦く笑わざるを得なかった。
名人地獄! 名人地獄!
「ふん、それからどうしたな?」平八は先をうながした。
「……で、おおかた筋といえば、そういったものでございますがね、どうもつくりがあくどいので。へへへへ、全くあくどいや」「なんだい、いったいつくりとは?」「へい役者のつくりなので」
「役者のつくりがどうしたんだ?」「こればっかりは申されません。旦那ご自分でごらんなすって」
小松屋松五郎はこういうと、何かひどく気の毒そうに、クックックッと含み笑いをした。
「で、座頭《ざがしら》は何んというんだ?」
「阪東米八といいますので」
「そいつが切り髪の女なのか?」「へい、さようでございます。滅法《めっぽう》仇《あだ》っぽい美《い》い女で、阪東しゅうかの弟子だそうです」
「鬘《かつら》を着けていたひにゃア、切り髪なんかわかるまいに、どうしてお前は探ったな?」「いえ、そいつはこうなので、見物の中に見巧者がいて、噂をしたのでございますよ」「ほほう、なるほど、どんな噂だな?」「なんでも今年の春のこと、旦那というのに髪を切られ、世間に顔向けが出来ないので、それでずっと休んでいたのが、今度旦那から金を取り、自分が座頭で一座を作り、打って出たのだとこういうので」「これは筋道が立っているな。いかさまこいつはいい[#「いい」に傍点]耳で、知らせてくれて有難い。ゆっくり茶でも飲んで行きな」
一つ二つ世間話があって、やがて松五郎は帰って行った。その後から平八も、仕度《したく》をして家を出た。
さすがの玻璃窓の平八も、鼓賊ばかりには手古摺っていた。鼓の音を目あてとして、尋ねあぐんだそのあげく、うまく池ノ端で探りあてたはいいが、湯島天神へ追い込んで、さていよいよ捉えてみると、何んのことだ観世銀之丞! それ以来方針を一変し、髪を切られた小屋者はないかと、その方面から探ることにしたが、ねっから目星しい獲物もなかった。で、すっかり悄気《しょげ》返り、「鼓賊はどうでも俺の苦手だ。ひどい間違いのないうちに、手を引いた方がよさそうだ」などと思いあぐんでいたところであった。
で、松五郎の話にも、大して気乗りしてはいないのであった。「どうせアブレるに違いない、今度アブレたらそれを機会に、一切探索にはたずさわるまい。頭を丸めて法衣を着て、高野山へでも登ってやろう。ああああ浮世は面白くねえ」
こんなことを思いながら、彼はポツポツ歩いて行った。
阪東米八の掛け小屋は、かなり立派で大きかった。絵看板も美しく、「名人地獄」と記した文字も、躍り出しそうに元気がよい。
しばらく見ていた平八は、木戸を潜って内へはいった。
ギッシリ見物が詰まっていた。そうして幕が開いていた。上野山下池ノ端、美しい夜景が展開されていた。と、一人の人物が、鼓を打ちながら現われた。縦縞の結城紬《ゆうきつむぎ》、商人じみた風采であった。
「ははあこいつが鼓賊だな」
平八は口の中で呟いた。と、もう一人の人物が、それを追いながら走り出た。古ぼけた紋服、古ぼけた袴、年の頃は五十四、五、皺の寄った痩せた顔、郡上平八そっくりであった。
「ううん、さてはこいつだな、松五郎めがいいにくそうに、あくどいつくりだといったのは! いかにもこれはあくど過ぎる。だが、それにしても不思議だな。
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