深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

 そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。
「それにしてもゆうちょう[#「ゆうちょう」に傍点]な敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう? それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」
 一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。
「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、蒐集《しゅうしゅう》したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」
 こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。
「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」
 しまいには恋をまで疑うようになった。
「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」
 彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。
 するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり碇《いかり》を下ろしたりした。
「怪しい怪しい」
 と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。
 しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。
 というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。
「おおこれは十字架の形だ!」
 つづいて連想されたのは、ご禁制|吉利支丹《キリシタン》のことであった。
「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」
 さすがの彼もゾッとした。
「これは大変だ。逃げなければならない」
 しかし逃げることは出来なかった。
 出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。
「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
 止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?

 銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
 ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁《ささや》いていた。
 何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。
 しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。
 が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。
 で、邸内は平和であった。無為《むい》に日数が経って行った。
 全く不思議な邸ではある。
 だが銀之丞はどうしたのだろう? いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか? それとも死んでしまっただろうか? 死んだとしたら殺されたのであろう。
 可哀そうな彼の運命よ!
 だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。

    家斉《いえなり》将軍と中野|碩翁《せきおう》

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赤い格子に黒い船
ちかごろお江戸は恐ろしい
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 こういう唄が流行《はや》り出した。
 十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
 恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
 時の将軍は家斉《いえなり》であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
 こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
 ある日お気に入りの中野碩翁《なかのせきおう》が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
 碩翁の方
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