でやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は位取《くらいど》ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を誘《おび》き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた雁股《かりまた》のように、巌然《がんぜん》と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した居所攻《いどころぜ》めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気|疲労《つか》れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は捨鉢《すてばち》の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。
 と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、しない[#「しない」に傍点]の先へポッツリと、真紅《しんく》のしみ[#「しみ」に傍点]が現われたが、それが見る間に流れ出し、しない[#「しない」に傍点]を伝い鍔《つば》を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な!」と思う間もなく、またもや同じしない[#「しない」に傍点]の先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった!」と思った。「打たれる! 打たれる! いよいよ打たれる!」
 果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。
「今、打たれる! 今、打たれる!」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手のしない[#「しない」に傍点]が、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の柄《え》を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。

    忽ち崩れた金剛の構え

 中肉中|丈《ぜい》で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個|瀟洒《しょうしゃ》たる人物が、黒
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