を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が止《や》んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」
丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと四辺《あたり》は静かであった。物寂しく人気がない。
お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。
「さてはこっちの木精《こだま》かな? 奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは木精《こだま》に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」
首につるした密書箱を、懐中《ふところ》の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。
和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。
「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は忍術《しのび》の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか俺《おい》らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、白浪《しらなみ》の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン!」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも忍術《しのび》の一秘法、電光のような横歩きであった。
胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。
「木精《こだま》ではない、木精ではない! やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな? いや待てよ、あの歩き方は?」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋
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