窓の郡上[#「郡上」は底本では「那上」]平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。
「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう? 当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の逸見《へんみ》多四郎、それから、それからもう一人! うん、そうだ、あの人だ!」
その時、ボ――ッという竹法螺《たけぼら》の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に颯《さっ》と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう?」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の船首《へさき》にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。
「あっ、飛び道具だ! こいつはいけない!」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア! 飛び道具だア! お武家あぶねえ! あぶねえあぶねえ!」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。
風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺|寂《せき》として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が大音《だいおん》に呼ばわった。
「おお貴様は、森田屋じゃねえか!」
「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか!」
「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ!」
「あっいけねえ、そいつあ大変だ! わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ! 取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と軋《きし》る艫櫂《ろかい》の音、
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