尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。
「ああ本当にいい音《ね》だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』とおいら[#「おいら」に傍点]の好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間|業《わざ》では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ俺《おい》らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。
この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴!」と突然《だしぬけ》に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」「おお甚内か、あれを聞きな。何んと素晴らしい音色じゃねえか」
「ああ鼓か。いい音だなあ」兄と並んで腰を掛け、甚内もしばらく耳を傾《かし》げた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、なおも鼓は鳴っていた。と、鼓は静かに止んだ。恐らく一曲打ちおえたのであろう。甚三は一つ溜息をした。二人はしばらく黙っていた。
「あにき、この頃変ったな」不意に甚内が咎めるようにいった。「お前、どうかしやしないかな」
「何を?」と甚三は不思議そうに、「別に変った覚えもねえ」「いいや変った、大変りだ。この頃|頻《しき》りに考え込むようになった。そうして元気がなくなった。そうかと思うと歌を唄うと、まえにも優《ま》してうめえものだ」
兄貴、どうだな、思い切っては
「俺《おい》らの追分のうめえのは、今に始まった事じゃねえ」甚三は多少の自負をもって、やや得意らしくこういったが、その声にもいい方にも、思いなしか憂いがあった。「宿一杯知れていることだ」
「ああそうともそれはそうだ。宿一杯は愚かのこと、参覲交代のお大名から、乞食非人の類《たぐい》まで、かりにも街道を通る者で、お前の追分を褒めねえものは、それこそ一人だってありゃしねえ。その追分を聞きてえばっかりに、歩いても行ける脇街道を、わざわざお前の馬に乗る、旅人衆だってあるくれえだ。お前の追分に堪能なことは、改めていうには及ばねえ。おいらのいうのはそれじゃねえ。そのお前の追分節が、近来め
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